ビールに狙った香りを付けるのは難しい? ホップの研究者に話を聞いてみた
ビールの原料であるホップは、「ビールの魂」と言われるくらい銘柄の個性を決める重要な役割をもっています。特に香りは、ここ数年フレーバーホップと呼ばれる特徴的な香りをもつものが数多く登場し、私たちを楽しませてくれています。
今回、サッポロビール株式会社(以下、サッポロビール)でホップの研究をしている商品・技術イノベーション部の蛸井潔さんにお話を聞く機会をいただきましたので、ホップの香りについて聞いてみました。
目次
■ビールまでたどり着くホップの香りは、元々の1%にも満たない!?
ご存じの方も多いと思いますが、最初にビール醸造における香り付けの工程について説明します。
一般的なビール醸造方法として香り付けは、麦汁煮沸の終了直前にホップを入れて行います。これはレイトホッピングと呼ばれます。最近は、より香りを付けるために発酵工程以降にホップを入れるドライホッピングと呼ばれる手法もよく行われています。
ビールの香りの成分は、ホップの球果(毬花)の中にあるルプリンに由来しています。ホップの収穫や圃場見学の経験をしたことがある方は、球果を割ってルプリンの鮮烈な香りを嗅いだことがあると思います。
華やかに香るルプリンですが、その大部分はミルセンなどの炭化水素系テルペン類という水に溶けにくい成分のため、揮発しやすく煮沸工程で熱が加わると香りが飛んでしまいます。どのくらい飛んでしまうかと聞くと「すべての成分が同じではありませんが、レイトホッピングの段階で気をつけていても、麦汁を冷やした段階になると元々の1%程度しか残りません」と、ほとんど残らないレベルで無くなってしまいます。
さらに「主発酵の段階でも炭酸ガスが発生するときに一緒に香りの成分も揮発します。発酵が終わって製品になる段階ではもっと少なくなります」と言うから驚きです。
香りを付けるため、ドライホッピングが流行る理由がわかりました。
だったらレイトホッピングは行わずにドライホッピングだけで香りを付ければ良いのではと思い、蛸井さんに聞いてみると「ホップには好ましく感じない香り成分もあります。ドライホッピングだと十分に揮発しないこともあるので、そういった香りは煮沸をしてしっかり飛ばす必要があり、レイトホッピングは有効な手法です。どの香り成分を残してどれを無くすのかは、ホップを投入するタイミングや時間、量で変わってきます。それから、煮沸に入れるホップの意味合いは香りだけではなく、ホップに含まれるα酸が煮沸の熱でイソα酸に変化することで『ビール特有の苦味』になっています。その意味でも、ドライホッピングだけというのはあまりお勧めしません」と教えてくれました。
様々な品種を組み合わせることで、多様な香りが生み出されるビール醸造。改めて美味しいビールを造り続ける醸造家の皆さんに脱帽です。
■ビールの香りはデザインできる?
色々な品種を組み合わせて仕込むことで、多様な香りが生まれるビール醸造。そもそも香りはどのように形成されているのでしょうか。
「ここ10年くらいの研究で、フレーバーホップの香りには『揮発性チオール類』と『モノテルペンアルコール類』の相互作用が大きく関係していることがわかってきました」
ちょっと難しい言葉が……。蛸井さんに説明してもらいました。
「揮発性チオール類は、元々はソーヴィニヨン・ブランという白ワインに使用するぶどう品種の成分として研究されていて、少ない量で香りがするのが特徴です。この中にある4MSP(※1)はワインの世界では、ツゲやエニシダの芽の香りなどと表現される特徴的な香りで、3SH(※2)はグレープフルーツの皮の部分を連想させるフレッシュ感のある香りと表現されています。また、ホップの研究では、この3SHとそっくりの3S4MP(※3)という成分が新たに見つかりました。そのうちの3S4MPと4MSPという成分がモノテルペンアルコール類などの香気を強める効果もあることがわかりました。
モノテルペンアルコール類は、スズランやラベンダーなどに含まれるリナノールや、バラやゼラニウムに含まれるゲラニオールという成分があって、これらはホップにも含まれています。これが揮発性チオールとは違った香りに効いています」
ビールの香りとカギとなる2つの香り成分。不思議なことにリナロール以外のモノテルペンアルコール類は、ヨーロッパの伝統的なアロマホップにはほとんど含まれておらず、ネルソンソーヴィンやシトラ、モザイク、ギャラクシーといったフレーバーホップには複数の成分が含まれていることが研究により解明されてきて「これがインパクトある香りの原因の1つになっている可能性があります」と蛸井さんは言います。
※1 4-methyl-4-sulfanylpentan-2-one
※2 3-sulfanylhexan-1-ol
※3 3-sulfanyl-4-methylpentan-1-ol
■ビールになると香りが変わる?
白ワインの香りに例えられえるネルソンソーヴィンのように、ビールに特徴的な香りを付けるホップ。しかし、その中には説明とは異なる香りを感じることがあります。
「それは酵母に醸されることで、香りが変化しているからです」
上述した通り、ホップの香り成分は煮沸中や発酵中にほとんどが失われてしまいます。さらに「酵母の発酵中には香り成分がホップ由来の前駆体から新しくできたり、フローラルな香り成分をもつゲラニオールは、酵母が発酵するときにシトロネロールというライムのような香り成分をもつ物質に変化したりします」と、ホップの香りはそのままのであることはほとんどなく、酵母に醸されることで飲むときに感じられる香りになると言います。
「ネルソンソーヴィンですと、酵母に醸されると元からある白ワインのような香りが強く感じるようになります」と、ホップによって酵母に醸されることで香りが強くなったり、弱くなったりすることも研究でわかってきています。
香りの表現については、「ホップ自体の香りを表現していることもありますし、酵母に醸された後の香りのことを表現しているものあると思います」と、表現方法に明確な決まりはないそうです。
■フレッシュホップとペレットホップは、どちらが香りを付けるのに適している?
ここまでホップの香り成分は揮発性が高く、その多くが醸造工程で失われてしまうこと。酵母に醸されることで香りに変化が生じることを教えてもらいました。
一般的に醸造に使用されるホップは、乾燥後、圧縮して固形化したペレットホップです。そのほかにも収穫後に乾燥させた状態で使用するホールホップや収穫直後の新鮮なホップを使用するフレッシュホップがあります。状態の違いは、香り付けにも影響があるのでしょうか?
「1番の違いは、乾燥させているかいないかです。収穫後、すぐに50℃~60℃程度の温風で乾燥させますが、熱を加えると消えてしまう香り成分もあります」と、そのまま使用するフレッシュホップはペレットホップやホールホップにはない香りを付けることは可能と言います。
しかし、「ホップをすり潰して圧縮するペレットホップの方が、ルプリンもすり潰されるので、麦汁に溶け込みやすい分、香りが付きやすくなる可能性があります」と、フレッシュホップよりも香り付けに向いていると推測もします。将来的に香りの引き出し方は、醸造方法の研究により調整が可能になってくると言います。
ちなみにペレットホップとホールホップでは「香り成分はそれほど大きな違いはありません」とのこと。
■香り成分を研究して「香りのデザイン」を可能にしていきたい
フレーバーホップの登場で、「香り」という新しい楽しみ方が広がりつつあるビール。サッポロビールでは、苦味を揃えた上でホップをガラスフラスコ中で蒸留水と混和し、オートクレーブで煮沸、そのあと濾過した浸出液を評価する「煮沸液官能評価法」という方法で育成ホップを評価しています。これにより、不溶性成分や揮発性の高い成分を除去した、ビール製品により近い形でのホップの香り成分を評価することができます。
ホップ自体がもつ香り成分とビールに近い状態になったときの香り成分を研究して科学的に解明することで、ビールのレシピがつくりやすくなると言います。
香りの成分を1つずつ重ねて変化を研究してビールの香りにエビデンスをもたせる。それが現実的になれば造りたいビールをデザインしやすくなるメリットが生まれます。蛸井さんの話を聞いて、様々なホップを組み合わせることで、多彩な香りを生み出すことができるところにビール醸造の奥深さ、面白さを感じました。
サッポロビールでも「SORACHI1984」やセブン&アイ・ホールディングスと共同開発したホップにフォーカスしたビールを販売しています。醸造家の創造性や蛸井さんをはじめとする研究者の努力によって、これからどんなホップの香りを楽しめるビールが登場してくるのかもっと楽しみになりました。
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。