[コラム]2022.5.5

一歩進めた雑学(4) ラガー酵母の母を探せ! 母を訪ねて三千里の旅

ビールがすすむ新緑の季節がやってきました。
暖かい日差しの中、ラガー系のビールをゴクゴクと飲みたくなります。
さて、多くの人にとって1番親しみのあるラガー系のビール。これらのビールはラガー酵母から造られるのですが、このラガー酵母には大きな謎があるのです。今回は、この謎を解く旅に出たいと思います。

酵母のおさらい

冒頭でいきなりラガー酵母の話をしましたが、ここでまず酵母のおさらいをしたいと思います。ビールを造る主要原料は、麦芽、ホップ、水、酵母となりますが、この酵母、大きく分けて、エール酵母とラガー酵母に大別されます。
クラフトビールと呼ばれるビールは、エール酵母を使って造るビールが多く、代表的なスタイルとしては、ペール・エールやインディア・ペール・エール(IPA)があります。
一方、大手ビールメーカーが造るビールは、ラガー酵母を使ったものが主流で、あの金色に輝くビールです。ピルスナーというスタイルはまさにラガー酵母を使ったビールの代表です。
エール酵母の学名は、サッカロマイセス・セルビジエと言い、ラガー酵母は、サッカロマイセス・パトリアヌスと言います。

主なビール酵母のまとめ

ラガー酵母とエール酵母の深い関係

エール酵母は古くからビール醸造に使われてきましたが、ラガー酵母は、14世紀から15世紀にドイツ(神聖ローマ帝国)で使われ始めたと言われています。つまり、ラガー酵母はビールの数千年の歴史から考えると、極めて新参の酵母と言えるでしょう。
そして、このラガー酵母、実は、エール酵母の子供なんです!
親戚とかそんなんではなく、子供です。もの凄い深い関係、親子なのです。
となると、父?と母?がいるはずです。エール酵母が父にあたるのか、母にあたるのかわかりませんが、ここでは、エール酵母を父とすることにすると、ラガー酵母の母は、DNA解析の結果、サッカロマイセス・ユバナスということがわかっています。
ここはちょっとした雑学ですが、人間などは両親から染色体の半分づつもらうので、染色体の数は両親と変わりませんが、ラガー酵母は両親の染色体をそのまま全部もらっていて、エール酵母の2倍の染色体を持っています。異種融合体(異種高次倍数体)という生物なのです。

酵母の家系図

母はどこから来て、どうしていなくなったのか?

ラガー酵母の母、サッカロマイセス・ユバナスには大きな謎があります。
野生種が、ヨーロッパで見つかっておらず、野生種が見つかっているのは、北米チベットパタゴニアニュージーランドだけなのです。
サッカロマイセス・ユバナス(ラガー酵母の母の設定)は、サッカロマイセス・セルビジエ(ラガー酵母の父の設定)とヨーロッパで出会い、恋に落ち、サッカロマイセス・パトリアヌス(ラガー酵母)を産んだ。でも、何らかの理由で、実家に帰ってしまった。ラガー酵母は寂しい、少年時代を過ごした……。
「僕のお母さんを探して……」
ラガー酵母のこんな声が聞こえてきそうです。
私はラガー酵母の母探しの旅に出ることにしました。

母の実家は新大陸?

北米、パタゴニア、ニュージーランドと、いわゆる新大陸でラガー酵母の母の野生種発見が多いことを鑑み、私は、新大陸にラガー酵母の実家があると仮説を立てました。
ヨーロッパ人が新大陸に踏み込み、そこから持ち帰ったものにラガー酵母の母がいたという仮説です。
では、ヨーロッパ人が新大陸に踏み込んだ年代を確認しましょう。
コロンブスがバハマについたのが1492で、ほぼ16世紀。15世紀にはラガー酵母が使われていたとすると、コロンブスが持ち帰ったとするには年代が合いません。では、パタゴニアはどうでしょう? パタゴニアはマゼランが航海で訪れていますが、コロンブスのさらに20年以上あとです。こちらも年代が合いません。ニュージーランドにヨーロッパ人が訪れるのは、さらに後ですから、ラガー酵母の母が新大陸から持ち込まれたという仮説はどうやら成立しないようです。

サッカロマイセス・ユバナス(ラガー酵母の母の設定)の野生種分布

そして、チベットへ

残るはチベットですが、ヨーロッパの人が殊更チベットに行ったという話はあまり聞いたことがありません。
ラガー酵母の母探しは失敗に思われた時、私はチベットで驚くべきものを発見しました。
チベットのビール、「トゥンバ」です!
チベットにもビールがあったのです!
このビールは、きびを発酵させたもので、厳密にはビールではありませんが、非常にビールに近い飲み物です。チベットの隣のネパールのお酒のようでもありますが、チベットでも飲まれているようです。
通常のビールと違うのが、飲む時に、即席ラーメンのように作るところです。きびを発酵させたものに、お湯を注ぎ、2〜3分待ちます。ブクブクと音が聞こえてきたら、ストローを入れて、きびを避けながら飲むといった具合です。
古代メソポタミアでは、ビールの原料を避けながら、ストローで飲んでいたと言われていますが、トゥンバも似たような飲み方です。
トゥンバの面白いところはある程度の携帯性があるところです。発酵させたきびを持ち歩き、飲みたい時に飲む。これなら、トゥンバをヨーロッパに持ち込みやすい。そして、トゥンバにラガー酵母の母が潜んでいた可能性は十分あります。
ラガー酵母の母は意外にもチベット出身だった可能性が高くなりました。

チベット周辺のビール、「トゥンパ」

では、誰が運んだのか?

当時の世界情勢を見てピンときました。
14〜15世紀はモンゴル世界帝国の最盛期で、ユーラシアをほぼ支配していました。当然、チベットは帝国の一部ですし、モンゴル世界帝国はポーランド付近にまで支配を及ぼしています。
ラガー酵母の母は、トゥンパにひそみながら、モンゴル世界帝国の武人又は商人に携帯され、ヨーロッパにやってきたのではないでしょうか。
この時代、帝国内外の交流は盛んでした。ヨーロッパを恐怖に陥れたペストは、もともと14世紀に中央アジアで発生したものがヨーロッパに広がっていったことからも、交流が盛んだったと言えるでしょう。つまり、ラガー酵母の母がヨーロッパに持ち込まれる可能性は充分にあるのです。
「ラガー酵母の母の実家はチベット」
このように考えて良いのではないでしょうか。

では、何故、ヨーロッパからいなくなったのか?
最後の疑問ですが、これは恐らく、エール酵母とラガー酵母で造るビールがあまりに優勢なヨーロッパでは、ビール酵母の母、単体での醸造はほとんど行われず、野生種としては消えていったのではないかと考えられます。
恐らく、しばらくはヨーロッパにいたのだと思います。そして、それが新大陸に持ち込まれたのではないでしょうか。

モンゴル世界帝国の最大領土(青地)

おわりに

ラガー酵母の大きな謎の解明の旅、いかがだったでしょうか。
ビールという意味ではあまり関係がないと思われたチベットが、実は重大な役割を果たしていて、さらに、これまたビールとは関係が薄いと思われていたモンゴル帝国も影響を与えていたということに、歴史のロマンを感じます。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。皆さんが今日、ラガー系のビールを飲む時、その味わいが少しでも深いものになっていたら幸いです。

 

【参考文献/情報】
「美味しさの鍵を握るビール酵母の魅力を探る下面発酵酵母の解析から見えてきたもの」
D. Libkind et al., Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 108, 14539 (2011).
「醸造用酵母の菌株あれこれ (2)ビール酵母、ワイン酵母」
「都市社会におけるビール文化」セミナー 静岡大学「発酵とサステナブルな地域社会」研究所
「トゥンバ:Tongba (Nepal Hot Beer) ネパールの熱燗ビール」
「ネパールに行ったら是非飲んでみたいネパールの地酒」
「全世界史講義 I 古代・中世編」 出口治明 新潮社
「全世界史講義 II 近世・近現代編」 出口治明 新潮社

エールサッカロマイセス・セルビジエチベットビール酵母モンゴルラガー

※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。

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この記事を書いたひと

小川 雅嗣

ビアジャーナリスト/ビール研究家

1966年、東京生まれ。これまでずっと企業の研究員として過ごしている。
ビールの好きなところは、美味しいところ、自由で多様で何でもありな懐の深いところ、そして、飲むとみんなが笑顔になるところ。そんなビールには、まだまだいろいろな楽しみ方、美味しさがあるのではないかと思っていて、ビールについて疑問に思ったことを調べたり、思いついたことを試したりする中で、ビールの楽しさが伝えられるといいなと思っている。
人生やりたいことは、とにかく全部やろうと思い、ビアジャーナリストに。その他、音楽、映画、小説などの活動も、大したレベルではないが、いろいろやっている。

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