異色対談 科学の力でビールが進化する? サッポロビール蛸井潔×フリー醸造家田上達史編
2023年2月で神奈川県川崎市にある東海道BEER川崎宿工場を離れ、フリーの醸造家となった田上達史さん。今だからこそ会って話を聞きたい人がいると言う。その1人がサッポロビール株式会社価値創造フロンティア研究所の蛸井潔さんだ。
「ホップ研究の第一人者がどんなことを考えてビール業界に携わっているのか」
東京・恵比寿にあるサッポロビール株式会社の本社を訪れ、蛸井さんに思うことを投げかけていく。
目次
科学がビールを変えていったのか?
田上:最初にお聞きしたいのが科学の力がビールを進化させてきたのかということです。ビールは歴史の長いお酒で、振り返ると科学の力がビールを進化させたと思っています。研究者の立場としてどのように感じていますか。
蛸井:科学の力でビールが進化したとは思っていないですね。これは恐らく私以外の研究者も同じように答えるのではないでしょうか。
田上:そういうものなのですか。そうするとビールは、伝統的な醸造方法を踏襲している部分が大きいということでしょうか。
蛸井:私がビール業界に入って約30年で「この部分の品質が向上した」というのはいくつかあります。入社したての頃に先輩から「ビールなんて研究しなくてもできちゃうからね」と言われたことがあります。確かにビールは造り方さえ知っていれば造ることはできます。
田上:そうですね。
蛸井:しかし、それでは根拠に乏しく、品質を確実に高めることは難しいです。ビールをおいしくする謎を解き明かす。そのために研究者は科学の力を使って研究をしています。進化というよりも謎解きでしょうか。
田上:醸造家の立場からみると科学の力が大きい気がします。
蛸井:造る立場からみるとそうかもしれませんね。ただ、お客様からみると研究の成果は分かりにくいところだと思います。
田上:成果は飲む人には分かりにくいレベルということですか?
蛸井:大手ビールメーカーには、主力商品の味を守っていく視点があります。醸造工程や品質にばらつきのある原料を使いこなすことによって味の変化ではないところで品質を高めていくので、お客様からすると劇的な変化は感じないと言うことです。
田上:劇的な変化は感じないレベルで品質を高める。それは具体的にはどんなことでしょうか。
蛸井:当社だとフレッシュキープ製法や旨さ長持ち麦芽などビールの品質を長時間維持するようなものですね。品質が長く保てるように工程や原料を変更して試しています。こうしたものは研究で得られた結果を通じて改良されていきます。
田上:それを聞くとやっぱり科学の力は大きいと思います。
蛸井:そうですか。まぁ、裏方的存在であると思います。しかし、歴史をみると酵母の研究はビール酵母から始まったとも言われていますから主役に躍り出ることもあるかもしれませんね。
ホップの研究を目にするようになったのはIPAの人気から
田上:アメリカでクラフトビールが登場して、醸造方法も支持層も劇的に変わりました。蛸井さんのホップに関する論文は、クラフトビール業界にも大きく影響を与えていると思っています。
蛸井:そうですか?
田上:クラフトビールは横のつながりが強い業界です。情報交換により経験がどんどん蓄積していきます。でも経験によるものなのでエビデンスとしては弱いです。大手ビールメーカーの研究は、クラフトビール業界の疑問を解決してくれる存在になっていると思っています。
蛸井:そんな風に思ってもらえているとは。
田上:今では当たり前になっているドライホッピングですが、10年前は使用量や投入温度、漬け込み時間など手探りでやっていました。醸造家たちが各々試した結果を集めて結論を出す。そして、新しい手法を試して新しいビールを生み出してきました。そのような経験を元にしてきた結論を、研究者の論文で答え合わせをする。だから私は科学がビールを変えていると思っています。私にとって大手ビールメーカーの研究はとてもありがたいものなのです。
蛸井:経験を研究により答え合わせをするのは大手ビールメーカーでもやっていると思います。解明して公表しているものもあれば論文にしていないものもあると思います。公表されていてもどの論文が何の謎解きにあたるのか紐づける仕組みがないので伝わっていないのでしょう。それと科学はなくてもビールは造れるわけで、1980年代にもドライホッピングしたビールを分析してみたという海外の論文があります。
田上:そんなに前からやってみた論文があるのですか⁉
蛸井:えぇ。でも積極的に研究されるようになったのはIPAの人気が高くなったからでしょう。ブームになったから「どうしてこうなるのだろう」と科学の立場からも検証しないといけないだろうと世界で研究が始まったのだと思います。経験と研究は同時並行ですよ。
田上:サッポロビールさんが1980年代にドライホッピングを解明していたら歴史が変わっていたでしょうね。
蛸井:さすがにドライホッピングを主力商品クラスで行うのは難しいですね(笑)。それとクセのある味になりますから、30~40年前には受け入れられなかったでしょう。
小規模ブルワリーのチャレンジが新しい研究の種になる?
田上:蛸井さんから醸造家に期待することって何かありますか。
蛸井:醸造家が新しいことに挑戦することで研究の対象もできます。「なぜ、こうなるのだろう」という疑問が研究の種になります。新しい種を見つけたいですね。
田上:それはクラフトビール業界に投げたら星の数ほど出てきますよ。最初に疑問に気づくのは醸造家だと思います。ニューイングランドIPAにしても「なんで濁るのだろう」ということすらも疑問だったはずです。分からないことは可能なら全部調べてほしいです。無責任ですが蛸井さんに根拠のない造り方を科学の力で覆してもらいたい。
蛸井:いやぁ、それはちょっと。
田上:ちなみに蛸井さんはどんな種が欲しいですか。
蛸井:どんなものでしょうね。サッポロビールも小規模ブルワリーさんもwin-winの関係になれるものがいいですね。
実はホップ研究よりも商品開発のキャリアが長い!
田上:サッポロビールでの研究はどのような形でビール開発に生かしているのですか?
蛸井:皆さん、私にホップの研究者のイメージをもっているかもしれませんが、実はキャリアの半分以上は商品開発部門に属していました。
田上:え、そうだったのですか⁉
蛸井:商品を開発する醸造家としての業務を担当していました。先ほど、醸造の各工程を研究して解明してほしい話がありましたよね。実はそういう研究の種を見つけやすい立場にいました(笑)。分析のスキルもあったので見つけた種からそれを研究に仕立てることまでやっていました。これは社内でも珍しいキャリアだと思います。
田上:醸造から分析・解明、そして研究まですべてを経験されていた。実際にはどのレベルまで醸造に関わっているのですか。
蛸井:小さな規模の設備で試作して香味や品質を造り込んでレシピの形にするまでやったものを工場へ展開させています。新商品を発売するときに研究して解明したことをセットにしてアピールできたこともありました。商品開発と研究の両方に関わることができたので経験を生かしやすいポジションだったと思います。
田上:採用されやすい研究分野はありますか?
蛸井:省エネやコストカットなど会社にとってメリットのある研究結果はつながりやすいと思います。
田上:ビールの品質を上げるだけの研究だと難しい?
蛸井:研究は品質保証以外の分野も行っています。その時の会社の方針で採用されるものも変わりますのでタイミングもあるでしょう。
田上:研究したものが世に出ないこともありますか。
蛸井:ありますね。ただ、時間が経ってから日の目をみるものもあります。5月30日に発売した「サッポロ クラシック 夏の爽快」で採用された熟成ホップ(※)の活用方法には約10年前に研究した技術が使用されています。
※ホップに含まれる「分岐鎖脂肪酸(BCFA)」にはチーズのような不快なにおいがあるものの、感じるか感じないか程度の量が含まれていると、ホップが持っている元々の香りを強める効果がある。熟成ホップでは苦味成分の分解でBCFAが増えるため、それを隠し味的に使うことでホップ香りを強めることができる。
田上:記事で読みました。
蛸井:タイミング次第で昔に研究していたものが生きることもあるかもしれません。熟成ホップがらみの研究も当時は「それは何につながるの?」と言われながら研究していました。
田上:良くないと感じられる香りも科学で解明されていると応用が効きます。許容できる範囲について理解が深まると思いますし、もしかしたらオフフレーバーも活用できるものが出てくるかもしれません。私もあえてオフフレーバーを生かした商品を開発したこともありました。
蛸井:それは興味深いですね。
田上:香りと言えば、レモングラスやヒノキなど個性的な香りをもった「サッポロSORACHI1984」。私の中でサッポロビールは、クラフトビールの延長線上にいると感じています。この商品はサッポロビールじゃないと世に出せなかったと思っています。これからも個性的なビールを造り続けてほしいです。
蛸井:ありがとうございます。「サッポロ SORACHI1984」は、期間限定の派生商品を担当したこともありました。
田上:そこも関わっていらっしゃいましたか!「HOPPIN’ GARAGE」の商品も担当していましたよね。
蛸井:はい。「それが人生」をはじめ数種類担当しています。
田上:私の中では蛸井さんは研究者だと思っていたので、今日話を聞いてびっくりしました。もっと商品開発者と研究者の間での意見の相違とかがあるのかと思っていました。
蛸井:まぁ、私のキャリアが特殊なので (笑)。人によっては研究と商品開発のギャップを感じている場合もあると思いますよ。
イメージをビールで表現できる
田上:私はビールを造る時、香りやフレーバーをイメージしたものを文章化してから造ります。蛸井さんはどうですか?
蛸井:私たちもお客様の声をビールにしていくので同じ感覚はありますね。
田上:原料を指定されると難しいですけど、味のイメージを頭で設計するところが1番楽しいです。
蛸井:「NIPPON HOP」のように使用するホップが決まっている場合は選択肢が少ないですね。逆に「HOPPIN’ GARAGE」は変わった原料を使って一発勝負なので難しさと面白さがあります。そんな時は、カギとなる原料を極端に使用するものとしないものを試験的に造ってみて、企画者の方にヒアリングして味を決めるなんてこともやります。
田上:そんなやり方もするんですか。振り幅がどのくらいあるのか興味ありますね。ちなみに蛸井さんが会社から「好き勝手にビールを造って良い」と言われたらどんなビールを造ってみたいですか。
蛸井:時々、この質問は受けるのですが……。そうですね、究極のビールをテーマにするならピルスナーで自分が1番おいしいと思うものでしょうか。
田上:ピルスナーですか! 先ほどは自由にと言いましたが、大手ビールメーカーだと決まりごとが多く自由度が少ないイメージがあります。使用できる原料も縛りがありますか。
蛸井:原料は時代や立場で考えが変わるかなと思います。例えばネルソンソーヴィンを初めて手に取ったときは「いつか使ってみたい」と思っていたら、運よく数年後に商品化されました。でも、今はホップ品種の開発がブームで数えきれない品種が登場しています。今だったら「Aって言う品種とBって言う品種を組み合わせたらCの香りになる」って考えるのは楽しいですね。
田上:色々なアイデアがあるので自由に造れることになったら直ぐにできそうですね。
蛸井:その時の状況や立場によりますよ。
田上:実現してほしいですね。私と組んでもらえるなら王道路線でお願いしてみたいですね。真夏に合うのど越し爽快なピルスナーではない方向のピルスナーに挑戦してみたい。一口一口香りを楽しみながら飲めるのを一緒に造ってみたいです。
ビール業界の将来のために垣根を越えた交流を!
田上:研究分野については大手とか小規模とか垣根は必要ないと思っています。人的交流が盛んになったら良いですね。
蛸井:越えなくてはいけない課題もあります。しかし、最近は「HOPPIN’ GARAGE」で「ホッピンフレンズ」という小規模ブルワリーとの共創プロジェクトも行われています。
田上:最初はビールを飲みながら話すだけでもいいと思います。そこから議論を重ねてお互いの価値を生かしたコラボレーションビールを生み出せる環境をつくっていきたい。
蛸井:そうですね。一緒に進められることからはじめて、新しい景色をビールファンとともに見ることができたら良いですね。
田上:まずは蛸井さんに学びたいブルワリーを集めて勉強会はどうですか?
蛸井:色々課題がクリアできれば……。
田上:楽しみにしています!
初対面ということもあり、はじめはお互いに緊張した面持ちで会話が進んだが、ビールを愛する者同士いつの間にか笑顔で話が盛り上がっていった。対談の後、2人は恵比寿の街で様々なIPAを飲みながら語り合った。そこで語り合った話がこれからのビール業界に生きる日がくるかもしれない。
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。