ビールについて淡々と勉強する 歴史その4
こんばんは。酒屋好きの池田です。以前西尾久の伊勢元酒店を知っている方と会って、とても嬉しかった。
前回までです。
第1回
https://www.jbja.jp/archives/7931
第2回
https://www.jbja.jp/archives/7947
第3回
https://www.jbja.jp/archives/7977
★博品館の場所でビールを売っていた
新橋南金六町四番地。現在銀座博品館がある場所です。1875年(明治8年)10月、ここに「横浜ビール東京請売一手捌所」が開設されます。
銀座での2度の大火のあと、文明開化の象徴としての煉瓦街を造ろうと再開発が始まった銀座。1873年(明治6年)には中心エリアの大体の工事は終了したそうですが、政府払下げ額が大きくあまり入居者が集まらなかったそう。ですから、もしかするとこの地番の最初の入居者だったのかもしれません。
E・ウィーガントのババリア・ビール(ジャパンブルワリーはすでに閉鎖しちゃいました)、コープランドのスプリング・ヴァレーを販売していたそうです。横浜で勢力争いを繰り広げて疲弊した二人が一緒にやろうぜということでコープランド・アンド・ヴィーガント商会を立ち上げるのは1876年(明治9年)。一緒になる前の同棲みたいな時期だったのでしょうか。
★博品館とは
さて少し脱線します。博品館は、「博品館勧工場」という名前で始まった施設、本によっては「日本最古の百貨店」とされていたりします。
もともとは永楽町、現在の丸の内あたりに1878(明治11年)1月20日、内国勧業博覧会で売れ残った商品を恒常的に売る場として生まれました。1899年(明治32年)現在の場所に移ります。
らせん状に上って降りる廊下は行きと帰りが出会うことなくすれ違う造りになっており、その中にいくつものおもちゃ屋があったとのこと。それは子供にはたまらないでしょうね。
内国勧業博覧会についても少し確認しておきましょう。
第1回 1877年(明治10年)8月21日~11月30日(上野)
第2回 1881年(明治14年)3月1日~6月30日(上野)
第3回 1890年(明治23年)4月1日~7月31日(上野)
第4回 1895年(明治28年)4月1日~7月31日(京都)
第5回 1903年(明治36年)3月1日~7月31日(大阪)
大久保利通が、日本が初めて正式参加したウィーン万博(1873年(明治6年)5月1日~11月1日)を参考に推し進めた博覧会です。明確に産業見本市的な立ち位置のイベントでした。
第1回は外国技術の改良的なものが多く、大半が政府出品だったそうですが、その中にビールも3点出品されます。浅草、横浜(ただし保坂氏という人物の「モーリービール」)、大阪(渋谷〈しぶたに〉麦酒)です。これが2回、3回と行くうちに出品者がどんどん増えます。
…この話はとりあえずこのくらいにして。
とにかく、「博品館勧工場」ができる前にはその金沢三右衛門による販売所ができました。キリンのHPによると、ペールエール、ポーター、ジンジャエール、ラガービール、ババリアンビール、ボックビール、また麦酒から造ったモルトビネガー、酵母やパン種も売っていたといいます。今でもしびれる品揃えですよね。
★四番地 → 十三番地
で、この販売所は早くも1877年(明治10年)に移転します。現在の三井ガーデンホテルのある場所、南金六町十三番地です。
金澤家は江戸の菓子商、三右衛門は11代目。この三右衛門さんはとにかく活発な人で、この後2年後の79年(明治12年)には前回紹介した「醗酵社」を桜田本郷町に立ち上げ、さらにその翌年紀尾井町に移転します。
で、現博品館の場所はどうなったか。中西二三郎という人物が醸造所を立ち上げます。この話は次回書くつもりです。
一方、販売所が移転した十三番地ですが、こちらもまた。後日、日本映画の発祥の地となります。この地には遅くとも1896年(明治29年)には絵や切手の輸出、幻灯機や浮世絵などの販売を行う吉澤商店があり、ここにイタリア人ブランチャリーニがシネマトグラフを持ちこみます。これをきっかけに、日本最初の映画会社となるのです。後の日活です。
おまけですが、「新橋」は一時期「芝口橋」と呼ばれいていた時期があります。1710年(宝永7年)に朝鮮からの使節来朝に備え立派な城門を設置し「芝口御門」と称し、橋の名前も「芝口橋」としましたが、わずか15年後に正月の火事で焼失。火事には気をつけましょう。御門跡の記念碑が銀座8-10の「銀座8丁目10番ビル」脇にあります。
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