私の“きっかけ”ビール[3杯目] いわて蔵ビール 佐藤航さん『常陸野ネスト ホワイトエール』
一杯のビールとの出逢いが、人生の転機に。ビール業界の第一線で活躍している人にインタビューし、「私の“きっかけ”ビール」について語っていただきます。
三回目は、「いわて蔵ビール」世嬉の一酒造 四代目の佐藤航さん。ビール醸造を志し悩んでいた時に出会ったのが、『常陸野ネストビール ホワイトエール』でした。
目次
とにかく視野を広げたかった学生時代
僕は日大の獣医学部で環境微生物学を学んでいました。ずっと理系だったのですが「生物系は50%位女性がいる」って書いてあって、工学部ではなく生物学を選択(笑)。そんな動機ながらも微生物の勉強をしてました。大学 4 年になったとき、もっと視野を広めたい思いもあって、休学届を出してオーストラリアのメルボルンに行ったんです。当時はクラフトビールのことも知らなかったので、ワイン飲んだり、バーベキューをしたりして満喫してましたね。ヒッチハイクして、インド洋まで行ったり。猿岩石より先に大陸横断してたりして(笑)。
微生物の世界からコンサルタント会社へ。経営を叩き込まれる日々
オーストラリアから帰ってきたら、日本ではバブルがはじけていて、就職先があまりない状態でした。船井総合研究所というコンサルタント会社になんとか入社し、経済学部、経営学部卒ではないので、徹夜で本を読んで、決算書読んで、3 日目で決算書分析を出して、はいダメってやり直しの日々だったんです。あの時はたくさん資料や本を読んで猛勉強しましたね。あとカバン持ちで北海道から沖縄まで、いろいろな企業の社長さんにお会いして経営者のアツい想いを聞いたりしたことも、今思うとすごい刺激になっていたと思います。
父のビール事業に最初は反対も、ヴァイツェンの美味しさに一転
1995 年にビール事業を父がはじめると言った時、東京にいた僕は反対したんです。当時ビールといえば大手しか知らなかったし、小さい会社が同じようなものを造ってもダメだろうと思ったし、100 年以上の歴史がある大手ビールに張り合って、どうして酒屋が始めるんだと。エチゴさんに続いて、造り酒屋もビール事業を始めた時期だったので、父としては勢いを感じていたんでしょうね。
そして打ち上げ花火のように第一次ビールブームが終わったとき、会社が大変だと、東京から呼び戻されたんです。戻るとビール事業が大赤字だからという話になってて、僕はコンサルタント会社にいたし、理屈で考えても「ビール事業を止めましょう」ってなるんですけど、その時飲んだヴァイツェンが美味しくて、なぜかビール事業を続けようと思ったんです。
ビール造りを 3 ヶ月で引き継ぎ「ホワイトエール」に出会う
「ビールを造る」と決意したのはいいんですけど、前の醸造士が辞めるので僕が 3 ヶ月間でビール造りを引き継ぐことになって。だから不安でいっぱいだったんです。ちょうどその時、北上わっかビール(現在終了)と平庭高原ビール(現在終了)や、銀河高原ビール、ズモナビール、宮守ブロイハウス、うち(いわて蔵)の 6 社で「東北ブルワーズ協会」というのがあって、ビールの勉強会やろうよっていう話になって、日本のビール事業で成功している、木内酒造さんに行こうって話になったんです。
前日入りした夜に、せっかくだから木内酒造さんのビールを飲みに行こうと、木内さんに樽生で出しているお店を教えてもらって。そのお店でカクテルグラスで出されたのが、「常陸野ネストビール ホワイトエール」との出会いでした。この香りを嗅いで、すげーー!!って。これが世界で賞を獲っているビールかと、もう感動しちゃって。
木内酒造でのビール修行で学んだこと
次の日に醸造所を見学したとき、木内専務のお父様が説明してくださったんですけど、ビールの造り方を経営者もわからないとダメだって話をされて、すごい感動したんですよね。一関に戻ってからも、木内酒造で修行したい想いが募って、「この間視察した、いわて蔵ビールの佐藤航です。ビールのこと全くわからないので、醸造について勉強させてください!」と電話したんです。木内敏行さんは「いいよ!」って言ってくださって。「君が美味しいビールを作って、業界がよくなるんだったら、僕らも嬉しいから」と。うちの父を説得して、月~金まで通いましたね。夜行で帰って、週末自分のビールを仕込む生活。1999 年から 2000 年にかけてだったと思うんですけど。
木内酒造では、“ヨーロッパは何世紀も前からビールを作っている。日本の大手ビールメーカーは100 年。僕らはまだ 10 年ちょっと。だからチャレンジしないといけない”と言う話や、ビール醸造は科学的な知識と創造的な芸術的な感覚を持たないと行けないと言う話、BOPもやりました。朝から夜まで働いて、仕事終わってからもレシピを見せて細かい点をディスカッションしたり。寝るときも頭の中でビールのイメージが離れないんですよ。いわて蔵の原型を作ったのは、この時だったと感謝しているんです。
僕が「東北魂プロジェクト」を続ける理由
学生時代に僕は新しい世界を求めて、東京の大学に行きました。でも大学の友人は、帰省してお土産を買ってきては、自分の故郷を自慢しあうんですよね。それを見たとき、実家を自慢できるってすごいな、って思ったんですよ。木内さんの話に戻るけど、僕らは世界レベルの商品を作っているからという誇り。これって田舎に必要なことだと気づかされました。だから、地元の人が誇りを持って自慢してくれるような、美味しいビールを作らないといけないと。一関の地ビールフェスティバルも、今年で 18 回目を迎えて全国から人が来てくれるようになったんですけど、これも一関の人々が、俺らのイベントは、日本全国で人気のあるイベントだ、って自慢できるようにしようと、始めたんですよ。
木内酒造の谷さんや現AOIブルーイングの高さん。元ヤッホーブルーイングの石井さん(現ISHII BREWING CO.)からはリアルエールを教わり、富士桜高原麦酒の天通さん、今は無き三次ベッケンビールの志村さんにはヴァイツェンについて教えてもらいました。普通に飲んでるときに「航くん、ヴァイツェンにホップ使いすぎ」とか具体的に教えてくれるんです。あと、1 年半うちに来てくれていたアウトサイダーブルーイングの丹羽さん、他にも・・・。人との出会いから多くのことを学びました。
こういった技術交流を東北のブルワリー同士でやろうと思ったのが、2014 年に「東北魂プロジェクト」を始めたきっかけなんです。ものを売ることが目的というよりは、技術交流がメインなんですよ。
でも一番は、醸造長の後藤孝則と出会ったことですかね。ずいぶん前に孝則と 2 人で、両国のポパイに行って、何杯か飲んで酔っ払っていたかもしれないんですけど、その時のヒューガルデンがすごく美味しかったんです。その時、孝則が涙ながらに「俺、こんなのを作りたい」って言って。そのとき、こいつセンスあるな、って思って。僕は木内さんのホワイトエールが好きなんですけど、僕も気づいたら泣いてて(笑)。
お酒ってなんのためにあるんだろう、お酒をなんのために作っているんだろうって思うこともあるけど、「人生を豊かにする」ものなんだと思う。普段言えなかったことを言えるようになったり、嬉しいっていう気持ちを素直に表せたり、本当は謝らなきゃいけないのを謝れたり。素直な気持ちになれる美味しいお酒を作り続けたいですね。いわての人に自慢してもらえるような。
> 私の“きっかけ”ビール[1杯目] 木内酒造 木内洋一さん『アンカースチームビール』
>私の“きっかけ”ビール[2杯目] 那須高原ビール 小山田 孝司さん『Orval(オルヴァル)』
★ 取材協力 「 Le petit L’ouest 北沢小西」
下北沢にある、クラフトビールの品揃え抜群の酒屋さん。店内で購入したお酒を試飲できる「角打ち」もできます。いわて蔵ビールの「きんくら」「あかくら」「くろくら」が飲めます!
★取材後記(みつき)
飾らない人柄に男女問わずファンも多い佐藤航さん。人との出会いを大切にしている航さんだからこそ、ビール造りにもたくさんの素敵なブルワーさんとの交流が生かされているのですね。今回掲載できませんでしたが、東北復興の現状やアツい想いも伺いました。その一環として始めた社会貢献活動をしている「リバースプロジェクト」とのコラボビール「ヨイツギ」の記事もよろしければご覧くださいね! 次回もお楽しみに。
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。