ビールの敷居は下げるべきなのか?
先週、「美味しいビールの悲しい風景」について書いた。
ザックリ要約すると「美味しいビールも提供のされ方で台無しになってしまう」ということである。
先週のコラムでも触れたが「今年はクラフトビールが“くる”」らしい。
そんな中、「クラフトビールの敷居を下げる」「ハードルを下げる」という言葉も良く耳にするようになった。
敷居? ハードル?
私は “敷居”というものをあまり感じないので具体的に“敷居”とは何かと尋ねると
「値段が高い」
「種類やスタイル多くて戸惑う」
「知識がないと楽しめない感じがする」
「一部のマニアの嗜好品っぽい」
「このグラスで飲まないとダメとか言われてめんどくさい」
などといった答えが返ってくる。
確かに、お勉強っぽくなると楽しめないのはよくわかるし、新しく参加しようとする人を排他するムードがあるとするならば反省するべきだ。
しかし、「敷居が高い」と言う人は“敷居”をどれぐらい下げれば“乗り越えてくる”のか? “またいでくれる”のか?
敷居が高いという人の“敷居の高さ”には個人差があるわけで、どこまで下げればいいのだろうか?
少し下げても、必ず「まだ高い」という人は出てくるわけで、なんだかいたちごっこな気がする。
極端かつ独断的意見だが、私は「敷居が高い」と言う人は、敷居を言い訳にしているだけで、どんなに下げても乗り越えてこないと思っている。
一歩ゆずって、彼らが言う具体的な“敷居”を下げ、その人が入って来たとしても、その人は下がった敷居からまた簡単に出ていってしまう気がする。
敷居というのは、敷居という言葉を使う人の心の中に存在するものであり、誰もその高さを判断することができない。
同じ高さの敷居でも、ある人にとってはとてつもなく高く、ある人にとっては気にとまらないほど低いものかもしれない。
そして、その敷居がどんなに高くてもまたごうとする人もいれば、1mmの段差もまたごうとしない人もいる。
極論を言うと、私はビールの「敷居を下げる必要はない」と思う。むしろ「下げるべきではない」と思う。
私はビールに敷居などないと思っているが、敷居があると感じる人がいるのならば、敷居は存在するに違いない。(いくぶん哲学的な言い回しになってしまったが…)
そこに敷居があるとするならば、必要とされていることはそれを「下げる」ことなのだろうか?
安易に敷居やハードルを下げるよりも「そこをまたいだり超える手助けをする」ほうが良いと考えるのは私だけだろうか?
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