新一万円札の顔!渋沢栄一とビール会社の関係。
大河ドラマ「青天を衝け」が話題になってますね。
2024年からの新一万円札になる人物としても有名です。
将来、令和生まれの子が就職してきて、
「福沢諭吉の一万円札は見たことありません。一万円といったら渋沢栄一ですよね。」
と言われて、その時の私たちは愕然とするんでしょうか。恐ろしや。
日本資本主義の父である明治時代の偉人、渋沢栄一。
人物紹介はいろんなところでされているので、ここでは超省略バージョンでお伝えします。
目次
私利を追わず、公益を図る
深谷ねぎが有名な埼玉県深谷市生まれ。江戸後期〜昭和初期まで91年の生涯でした。
(深谷ねぎのたっぷり入った煮ぼうとうが好きだったらしいです。)
生涯を通じて500社以上の会社の創業に関わり、多くの巨大会社の設立援助や経営を行っています。
そして次の信念を貫きました。
「私利を追わず、公益を図る」
現代語訳:自分だけの利益を追求せずに、社会全体に還元する。
人格的にも素晴らしい人だったのでしょうね。
当時は日本産業の草創期
500社も会社に関わるって今では考えられませんよね。
その背景としては、当時の日本は産業の草創期で資本家が少なく、1人の実業家がいくつもの事業を手掛けていました。実際、明治時代の多くの実業家がいくつもの事業を手掛け、のちの財閥へと繋がっていきます。
各ビール会社との関わり
その500社の中にはビール会社もあります。
実はサッポロ、キリン、ヱビス、アサヒ4銘柄の会社の役員になった経験がある、今では考えられないキャリアを持った人物なのです。まさに私利を追わない、ビール産業の重要人物です。
■キリンとの関わり
1885年に横浜にジャパン・ブリュワリー・カンパニー(現キリンホールディングスの前身)が誕生。翌年の増資の際に出資し、三菱家の岩崎弥之助と並んで日本人株主として名を連ねています。1889年には重役にも任命されています。
出典:食品新聞WEB版
・深谷市に設置されている「みまもり自販機(キリンビバレッジ)」
■サッポロとの関わり
1876年創業の開拓使麦酒醸造所(現サッポロホールディングスの前身)が民間の大倉組へ払い下げられ、その後、渋沢栄一と他の実業家が事業を譲り受けて、札幌麦酒会社を設立します。渋沢栄一は初代会長に就任しました。
・サッポロビール博物館の展示物
■ヱビス・アサヒとの関わり
日露戦争に向けた国力強化に向けて、当時のビール大手3社である札幌麦酒(サッポロビール発売元)、日本麦酒(ヱビスビール発売元)、大阪麦酒(アサヒビール発売元)が合併し、シェア70%を誇る大日本麦酒となりました。渋沢栄一は取締役として経営に参加しています。
大日本麦酒は戦後に解体し、サッポロ・ヱビスブランドを引き継ぐ日本麦酒(現サッポロホールディングス)とアサヒブランドを引き継ぐ朝日麦酒(現アサヒグループホールディングス)に分割されました。
出典:サッポロ・エビス・アサヒの合併・大日本麦酒の設立|アーカイブス
・よく見ると3社のラベルと取締役として名前が記載されています。
ビールファンとしての独り言
いくつものビール会社に携わっていた渋沢栄一は、無類のビール好きだろうと思いましたが、記録によると元々ビールが好きではなかったようです。ビール会社の経営者なら、毎日飲み放題だ!と思う私のような浅はかな人間は、そもそも経営なんて任されませんね。
これはビールファンの独り言ですが、シェア争いの激しいビール業界において、渋沢栄一に縁のあるサッポロ(ヱビス)・アサヒ・キリンの3社が合同で「渋沢栄一の新一万円札発行を祝う会」を実施したら、業界全体が盛り上がるのになぁ。
そして生涯を通じて、私利を追わず公益を図った渋沢栄一なら、きっとそんなことを考えたかもと想像してしまうのでした。
サントリーには申し訳ないけど。
【参考文献・資料】
「図説ビール」キリンビール株式会社
「渋沢栄一を知る辞典」 公益財団法人渋沢栄一記念財団 東京堂出版
「渋沢栄一 社会起業家の先駆者」 島田昌和 岩波書店
「初めての渋沢栄一」 渋沢研究会編 ミネルヴァ書房
「負けず 小説東洋のビール王」 端田晶 幻冬社
「日本ビール検定公式テキスト 2020年4月改訂版」 一般社団法人日本ビール文化研究会監修 マイナビ出版
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