【連載ビール小説】タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~⑩
ビールという飲み物を通じ、歴史が、そして人の心が動く。これはお酒に魅せられ、お酒の力を信じた人たちのお話。
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「びいるを造るにはまず麦芽からか。大麦も手に入ったことだし一刻もはやく店に戻って作ろう」
喜兵寿は大きな荷を担ぎ、夏への挨拶もそこそこに急ぎ足で歩きだした。3か月でビールを醸造しなければ牢屋敷にいれられる。そんな危機的状況にいるにも関わらず、その背中には恐怖や焦りではなく、びいるに対する好奇心が貼りついてみえる。「ほら、いくぞ」なおを振り返ったその目も、おもちゃを買ってもらった子どものように輝いていた。
夏はというと、そんな喜兵寿をうっとりと見つめ
「きっちゃーん、頑張ってね!今度お店に行くからねえ」
と手を振って顔を赤らめている。
「今日はいままでで一番きっちゃんと話しちゃった。うふふ。いつ柳屋に行こうかしら。いままではつるちゃんから出禁されていたわけだけれど、大麦のこともあるわけだし、そこはもう断られるはずがないわよね。やっぱり別の客たちが帰りはじめる夜更け頃がいいわよね。夜も遅いし、酒が入ってる女をきっちゃんが一人で家に帰すはずないもの。あわよくば泊っていきたいけれど、まあそれはつるちゃんがいるかいないかで決まってきちゃうわけで……でも少なくとも送っていってくれるわよね。まあそうすれば後は……うふふふふふ」
どうやら夏の目には喜兵寿しかうつっていないらしい。なおがまだ横にいるにも関わらず、ぶつぶつと一人妄想の世界に入っている。なおはそんな夏のそばをそっと離れると、喜兵寿の後を追った。
途中交代で大麦を担ぎながら、喜兵寿となおは柳屋へと戻った。そんなに距離はないとはいえ、夏の真っ昼間だ。身体中から汗が吹き出し、くたくただった。大麦を下ろすと、崩れるように椅子に座る。
「うへえ、あっつ」
「暑いな、これはさすがに堪える」
外では蝉がやかましく鳴き、窓から入ってくる風はゆるりとぬるい。それでも店の中はひんやりと静かに涼しかった。客席も席から見える調理場も整理されており、どこもかしこもきっちりと拭き込まれているのがわかる。
「なんだかこの店くつろぐな」
なおが呟くと、
「それはどうも」
という声と共に湯飲みが差し出された。見るとつるがふふんっといった表情で立っている。
「まあわたしが店の管理全般してるからね!居心地がよくないわけがないわよね」
湯飲みの中には並々と水が注がれている。それは冷たいとはいかないまでも、火照った身体を冷やしてくれるには十分だった。
「うへー。生き返る」
麦湯もうまかったけれど、やっぱり暑い日には冷たいものを飲みたいものだ。なおがゴクゴクと喉を鳴らしながら水を飲んでいると、つるが徳利に入れた水を持ってきてくれた。
「ありがとうな、つる。ところで今何時だ?」
喜兵寿が聞くと、「さっき昼の鐘がなってたから……」少し考えてつるが言う。
「たぶん真昼九つくらいじゃない?そうだお兄ちゃん、さっき魚売りの久兵衛さんが『いい鰹が入ったから見に来てほしい』って来てたよ」
鰹、と聞いて喜兵寿の顔がサッと変わる。
「久兵衛さんが『いい鰹』というのだから、さぞいい鰹なんだろうな。そうか、もう鰹の季節か……厚く切って、表面を炙って、薬味はたっぷりと。そうだ、今日は鰹の刺身を売りにするのがいいな。こんなに暑い日だ、日本酒のアテに喜ばれること間違いなしだろ」
ぶつぶつと呟き、「よし、ちょっと久兵衛さんのところに行ってくる!」と立ち上がる。しかしすぐに「いや、しかし麦芽をつくる作業も今からするのだった」と腰を下した。
本当に料理と酒が好きなのだな。なおはおろおろとする喜兵寿を見て、おかしそうに笑った。
「麦芽作りにはな、数日かかんだ。最初は水に漬けておくだけ。俺が作業しとくから、喜兵寿は鰹見に行ってきな」
「大麦を水に漬けるのか!うむ、気になるが……それなら後で話を聞けるもんな。じゃあ先に鰹を仕入れに行ってくる。台所や倉庫にあるものは好きに使ってくれ」
そういうと、喜兵寿は颯爽と出かけていった。先ほどまで暑さと荷の重さのせいで着崩れていたはずなのに、いつの間にかしゃんと整っている。
「ありゃあモテるのもわかるな」
喜兵寿の背中を見送ったあと、「もう少し休もう」となおが椅子に横たわると、背中に悪寒を感じた。恐る恐る振り返ると、つるが冷たい目で睨みつけてきている。
「おーっと、そうだ。そろそろ麦芽つくりの準備でもするかな。何か使える道具はあるかなっと」
なおはわざとらしく伸びをすると、道具を探しに店の奥へと向かった。
柳屋は下町では珍しい二階建ての建物だ。一階は居酒屋、二階には喜兵寿とつるが住んでいる。なおは麦芽作りに使えるものがないか、まずは台所を探し始めた。麦芽をつくる最初の工程は、大麦を水に漬けるところから始まる。最初からうまくいくとが思えないので、少量から実験的に始めるつもりだったが、それでも麦汁までつくるにはある程度の量の麦芽が必要だ。麦が水を吸って膨張することや、発芽後の毛根の成長を考えれば、結構な大きさの容器が必要だろう。
それにしても。なおはごそごそと棚を物色しながら思った。あの時自家製麦芽を作っておいて本当によかった。通常ビール造りは出来上がった麦芽を購入して使って行う。自家製麦芽を自分で作って、それからビールを造ります!なんてことはありえなくて、だから実家で遊び半分に作ってみなければ、一生作ることはなかったかもしれない。
あれも暑い夏の日で、ブルワリーに就職してからはじめての帰郷した時だった。まだ雑用のみだったけれど、自分が携わったビールが出来上がったことが嬉しくて、たんまりお土産に持って帰った。両親に妹、そしてその旦那。みんな揃って「うまい、うまい」と飲み、心地よく酔っぱらっていた。
なおの実家は農家なのだけれど、両親や妹に「ビールは土地の味を色濃く反映するんだ。だから農家とブルワリーは密接な関係があって、お互いがお互いをもっと輝かせることができるんだ」と熱弁していると、妹が「これでビールを造ろう」と近所の大麦農家から麦をもらってきたのだ。
(あの時はググりながら、あーでもない、こーでもないなんて言いながら作業したっけなあ)
なおは思い出しながら小さく笑う。大麦は発芽して、麦芽らしきものになったのだけれど、結局それからビールを醸造することはなかった。
「日本でホームブルーイングは違法だから」
実際そうなのだけれど、その時のなおはまだビールの醸造をできるだけの技術を持ち合わせていなかったのだ。「じゃあそのうち、うちの野菜とお兄ちゃんのビールでコラボしようよ」そう言ってにやりと笑った妹の顔が浮かぶ。
(そういえばうちの妹とつる、気の強さは少し似てるな)
そんなことを考えていると、棚と棚の間に大きなたらいがあるのを見つけた。こっくりとした色をしていて、大事に使い込まれてきたのがわかる。
「お!ちょうどいいサイズみっけ」
なおはたらいと、台所に立てかけてあったざるを持つと水場へと向かった。
―続く
※このお話は毎週水曜日21時に更新します!
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