【連載ビール小説】タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~⑫
ビールという飲み物を通じ、歴史が、そして人の心が動く。これはお酒に魅せられ、お酒の力を信じた人たちのお話。
第一話はこちら
だめだ、逃げるか、そう思った時、後ろから聞きなれた声がした。
「皆さん、驚かせてすみません!彼は怪しい人じゃないんです」
振り返るとつるだった。ごめんね、のポーズをしながらにこにこと歩いてくる。
「この人は柳屋が新しい酒つくりのために南方からお招きした杜氏でして。いまはうちに住んでおります」
つるの言葉に、女性たちが口を開く。
「怪しいもんじゃないったって、この人井戸の使い方もわからなかったんだよ?!それにおかしな髪の色だし、様子もおかしいし……!」
つるはなおの前に立つと、深々と頭を下げた。
「ご紹介が遅くなってすみません。彼はなにせ暮らしの違うような遠方に住んでいるものなので、わからないことも多いんです。
彼の住んでいた地はここにたどり着くまでに半年もかかるような、それはそれは遠方でして……道中の険しさと暑さで少し様子がおかしいこともあったかもしれません。でも決して害を加えることはありませんので、ご安心ください」
「いや、様子はおかしくないって……!」
なおが口を開くと、つるの鋭い後ろ蹴りが飛んできた。
「いっ……!!!」
「挙動がおかしいこともあるかと思いますが、これからどうぞよろしくお願いします。新たな酒ができたあかつきには、是非みなさん柳屋に飲みにきてくださいね。振る舞い酒をさせていただきますので」
つるの穏やかで淡々としたはなし口調に、人々は「まあ、つるちゃんが言うのなら」と、手にしていた武器を下ろし、ぞろぞろと家の中へと戻っていった。
最後につるは鳥居前に残っていた女性達とイチに声をかける。
「怖い思いをさせちゃってごめんなさい。彼にはわたしからいろいろと教えておきますので」
そういって頭を下げる。女性達は「いいのよ、いいのよ」「こちらこそごめんなさいね」と言いながら、つるの肩を叩いた。
「つるねえちゃん、おりゃあもうすぐにいちゃんになるでよ。べつになんもこわくなかったぞ」
イチはそう言いながらつるの足元に抱き着いている。つるはわしゃわしゃとその頭を撫でると、再び頭を下げた。
女性達が立ち去ると、つるはくるりとなおに向き直った。真顔でなおの目をぎっと見つめてくる。
(こりゃあ怒られるぞ)
なおは身構えたが、予想に反しつるは「ごめん」と頭を下げた。
「水場の使い方わからないだろうなと思ってたけど、教えなくてごめん。意地悪だった」
真っすぐなつるの言葉に、なおはたじろぐ。
「いや……えっと、聞かなかった俺も悪いわけだし……」
「聞きにくくしてたのもわたしの責任。ごめん」
そういって再び頭を下げた後、つるは切り替えるようにパンっと手を叩いた。
「よし、この話はこれでおしまい!さあ。さっさと水を汲んじゃいましょう」
「お、おう」
つるは井戸の上に置いてあった持ち手の長い桶を手にとると、ざぶんと井戸の中に落とした。
「井戸の水を汲むには、この桶を使って。水を運ぶには、土間にある水桶を使うといいと思う」
話しながらつるは器用にするすると桶を井戸から持ち上げた。中にはたっぷりと水が入っている。
「ほら、こんな感じ。でもさ、こんなの見ただけでわかるでしょう?井戸があって桶があったら、こうやって汲み上げる他別になくない?なんでわざわざ声をかけたの?」
つるが怪訝そうにいう。
「そりゃあ聞くだろ。だってこの水はここらに住む人たちの大事なもんだろ。下手なことして汚しちまったら大変だと思ってさ」
なおが答えると、つるは一瞬きょとんとした顔をした後、あははと笑い出した。
「あんたのことだらしなくて、どうしようもない男だと思ってたけど、意外なとこちゃんとしてんのね」
「そんなの当たり前だろ。って、俺だらしなくもどうしようもなくないから!」
つるはひとしきり笑うと、なおの持ってきたたらいに水をざばりとあけ、桶をなおに手渡した。
「さあ汲んじゃってちょうだい。このたらいでも、2人で運べば店まで持ち帰れるでしょ」
なおは桶を受け取ると、井戸から水を汲み揚げた。
それは思ったよりも重くて、持ち上げる度に腕の筋肉にずっしりと負荷がかかるのがわかる。それに加えてこの暑さだ。なおは額にびっしりと汗をかきながら桶を引き上げた。
さぶん、さぶん
3回程水を汲むと、たらいはいっぱいになった。透き通って冷たそうな水だ。
なおはぜえぜえと肩で息をしながら、水の中に顔を突っ込みたい衝動を必死で抑えてた。
仕事がら重いものを持つのには慣れているはずなのに、腕はぷるぷると震えている。
思わずしゃがみ込むと、上からつるの声が降ってきた。
「たったこれだけでだらしないわね。さ、店まで帰るわよ」
見ると、つるがたらいの淵に手をかけている。
「まじか。そうか、これを持つのかあああーーー」
なおは叫ぶと、ばたりと後ろに倒れこんだ。汗でべったりとはりついた着物に土ほこり。
そしてうるさいほどの蝉の声。見上げた空はびっくりするほどに青かった。ああ、麦芽をつくるための水を汲むだけでこんなに大変だなんて。
なおはゆっくりと目を閉じた。
「ああ、ビールが飲みたい。キンキンに冷えたやつを一気に飲みたい……」
凍ったジョッキに並々と入ったビール。口をつけた瞬間の泡の感じや、それを押しのけるようにして喉に滑り込んでくる冷たい炭酸……
しかしその妄想もすぐにつるに破られる。
「ほら遊んでないで帰るよ!」
「……うい」
こうして店までの数十メートル(なおの体感にしてみれば数キロ)を、重いたらいを持ち上げ帰ったのであった。
―続く
※このお話は毎週水曜日21時に更新します!
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