北海道最大のスタートアップ・ビール事業はなぜ成功した!? ビール ツーリズムで体験するその理由
明治政府の北海道開発の中枢となった「開拓使」。わずか10余年で当時の国家予算の半分近くが使われた「巨大プロジェクト」でした。しかし、そのうち現存するのは、サッポロビールに繋がるビール事業のみです。なぜビール事業だけが成功することができたのでしょうか?
9月中旬、北海道の地元密着のマイクロツーリズム「Discover EZO」が、その謎を解く体験型のミステリーツアーを実施しました。そのツアーに参加し、理由を体感してきました。
「Discover EZO」によるツーリズム クイズとゲームで街の歴史を学んでいく
歩いて、飲んで、学ぶ!ビール×体験型ミステリーツアー!北海道最大のスタートアップ・ビール事業はなぜ成功した!?
北海道長官であり、漫画『ゴールデンカムイ』でも取り上げられた陸軍第七師団長の永山武四郎の私邸が保存・展示されています。
ここで第2のゲーム。馬越恭平も興じたという芸者遊び「瓶釣り」でポイントを競います。紐を付けた栓抜きを王冠に引っ掛けて釣り上げられた成功。30秒という短い時間がプレッシャーになります。
そこから歩いて数分のところにある「北ガス アリーナ」へ。ここにはビール製瓶工場がありました。製瓶工場がその後北海道ガス(北ガス)のガス貯蔵場となり、その跡地が現在スポーツアリーナとなっています。
参加者がこのツアーの動画を作ってくださいました。許可を得て公開します。
今ツアーの経路(グーグルマップ)
https://maps.app.goo.gl/Khn1LhQA2R4o4QmM9
なぜ札幌でビール事業は成功したのか?
サッポロビールの創業地にして、現在は「札幌開拓使麦酒」を造るブルワリーもあるこの札幌。なぜこの地に開拓使はビール事業を起こし、それが成功したのかを改めてツアー内容から説明します。
北海道がビール醸造に適した土地であることを最初に見抜いたのは、「野生ホップ」の発見者、トーマス・アンチセルでした。明治4(1871)年、現在の岩内地方で野生ホップを発見したアンチセルは、単に「ホップを見つけた」だけの人ではありません。明治政府に「日本でもビールが醸造できる。横浜で試してみてはどうか?」と具体的な提案をします。その提案をきっかけにして、国産原料によるビール醸造のプランが築かれます。
明治期から札幌市内でもホップの栽培は始まりました。サッポロビールによるホップの栽培史は、こちらの記事もご覧ください。
当初、開拓使は東京・青山でビール醸造所を設立する計画でした。ビールは「文明国」を象徴するお酒で、東京でお披露目をする方がインパクトがあったからです。しかし、ビール事業の責任者に任命された開拓使の村橋久成は、札幌で事業を展開すべきだと考え、この決定に反対しました。彼は上司の黒田清隆を説得するために全力を尽くしました(黒田は非常に厳格な人物として知られています)。結果的に、村橋の努力が実り、札幌でビール事業を開始することが決定されました。
村橋がそこまでの思いをして札幌で事業したかったのはなぜだったのか? ビール醸造の責任者だった中川清兵衛がドイツでラガービール(低温下面発酵)の技術を学んでいたこともあり、まだ当時はエール(常温上面発酵)がメインだった日本国内のビール醸造の中でラガービールを造ることが大きなアドバンテージになるはず、と村橋は考えたのです。東京では十分な低温を得ることは難しいですが、札幌はそもそもが冷涼な気候。さらに、冬ともなれば近くの豊平川から氷が取れ、冷製のラガービールの醸造に適していたからです。
また、この周辺はアイヌ語で「メム」と呼ばれる湧水地が豊富な土地でした。水質が良いばかりでなく豊富な水源はビール造りにとって重要なことでした。(なお現在でも札幌開拓使麦酒は地下水を使用しています)
元々この周辺は、その水脈を基に開拓使が貯木場を設立していました。その製材は醸造所の建築資材となったりビール樽に使われることになります。また、煉鉄所、製鉄所などもあり、工業地域であった中に醸造所ができたのです。
「明治14年の政変」を機に開拓使は解体され、北海道のビール事業は民間に移ります。明治20年代になり、横浜で「キリンビール」、大阪で「アサヒビール」、東京で「ヱビスビール」が誕生し、村橋が予想した通りにビール会社はラガービールをメインとした群雄割拠の時代となります。
その時代の中でサッポロビールを安定させた「中興の祖」と言われるのが、植村澄三郎(ちょうざぶろう)です。
植村は1894(明治27)年に渋沢栄一の勧めで札幌麦酒に入ると、マーケティングを強化することで経営を安定させ、当時のシェアナンバーワンを獲得します。
1906(明治39)年、札幌の「サッポロビール」、東京の「ヱビスビール」、大阪の「アサヒビール」が合併し、「大日本麦酒」となりました。合併を主導したのはヱビスの馬越恭平でしたが、植村もサッポロ側から協働しました。こうして開拓使の一事業だったビール製造は、全国のみならず海外をも相手にする巨大産業として発展することとなったのです。
また、ビールの安定供給のためには、ビール醸造だけではなく容器も必要な条件でした。黎明期は日本酒やワインの瓶を再利用していましたがそれでは追いつくはずもなく、製瓶も手掛ける必要がありました。火山麓扇状地である札幌はガラスの原料となる珪砂(けいしゃ)が産出し、大きなコストをかけずに自社の製瓶工場をまかなうことができたのです。それが上で見たビール製瓶工場の跡地でした(設立は1900(明治33)年)。
豊富な水源があり、ホップが栽培でき、さらにはガラスの原料までも産出するこの札幌は、ビール製造が産業として発展するのにふさわしい土地だったのです。
こうしてわずか2時間ほどの徒歩によるツアーでその理由が体感できました。札幌こそは「ビールの街」を実感できる場所なのです!
全国的に見てもこれほどの「ビール遺産」を手軽に回れる街は、横浜の山手周辺や大阪の吹田など、かなり限られるのではないでしょうか。地元の方はもちろん、道外から来る方もぜひタイミングを合わせてこのツーリズムを体験してみてください。
体験型ツアー「Discover Ezo」と ビールサークル「Be Are kids」
「Discover EZO」はビールだけを案内するのではなく、北海道での「地域のお宝」を見つめなおす体験プログラムです。今回は主宰の伴野さんが案内役でしたが、ツアーごとに「北海道愛」あふれる個性的なガイドさんが、街や自然・歴史遺産を案内します。
https://discoverezo.jimdofree.com/
今回サポート役の「Be Are kids」は北海道大学のビールサークル(北大生以外も参加可能です)。今年2023年4月に設立されたばかりですが、ビアバー巡り、ビアギーク会(勉強会)、醸造所見学、イベント企画など、積極的に活動していて、今後が楽しみです。
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。