ビールを注いで半世紀:「海老原 清」さんインタビュー
58年。
この数字はというと、「海老原 清」氏がビールを注いできた年月だ。
その月日の重みを如実にイメージすることは私には難しい。
しかし、華麗な手さばきによりグラスに注がれた液体をひと口飲めば、その時間には確かに意味があったのだと感じずにはいられない。
そして、、、飲み重ねるうちにその人自身をもっと知りたいと思ってしまうのは、やはり私も同氏とそのビールに魅了されている証拠なのだろう。
今回は、ビールと向き合い半世紀、『ビヤホールライオン 銀座七丁目店』勤務等を経て多くのビールファンを魅了してきた『海老原 清(えびはら きよし)』氏の素顔に迫る。
目次
今もなお絶対の信頼を得るライオンビヤマイスター第1号
同氏は「株式会社サッポロライオン」に所属するビールの注ぎ手の一人。勤続58年で培った「究極の生ビール」を注ぐ技術から「生ビールの達人」と呼ばれている。
現在は定年退職を経て『生ビール品質管理アドバイザー』として後任の育成や技術指導等を行っており、基本的に店舗に立つことはない。
しかし、稀に「銀座七丁目店」のビヤカウンターに立たれることがあり、その日は平日の昼間にもかかわらず「海老原ビール」が飲めると聞きつけた飲み手たちであふれ、数百席ある1階のビヤホールが常に満席となるほどだ。
『もうそろそろ、1-2年で(ビール注ぎは)引き時かなって思っているんだけどね、みんなが注いでくれっていうからなかなかやめられなくて。』
そう笑いかける同氏であるが、その所作は全く衰えを知らないほどに今もなお洗練されている。
また、社内で注ぎを含めたビールの扱い方を熟知したものに与えられていた『ライオンビヤマイスター』の第1号でもある。
全国に約100店舗を構える同社の中でもこちらの称号を持たれている方は10人に満たない。定年退職された3-4年後に当時の社長推薦でご指名頂いたそうだが、「海老原さんが一番最初にこの肩書もらってくれないと締まらない」という理由だったとか。ファンの多さはもちろん、社内でも大きな信頼を得ていることがうかがえるエピソードだ。
「常にお客様第1」の精神が生んだ多くのファンたち
海老原氏は1948年1月9日、千葉県船橋市の農業を営む家庭の3男として生まれた。全国にビヤホールを展開するサッポロホールディングス(株)の子会社である同社(当時のサッポロ共栄㈱)に入社したのは18歳(1966年)のころである。
これがまた面白いことだが、同じくビール注ぎのレジェンドで知られる「八木 文博」氏(詳細はこちら)同様、ビール自体に興味があって入社したわけではなかったそうだ。
『銀座という土地で働いてみたいというのがそもそものきっかけでした。兄がバーテンダーをやっていて、そのお客さんと一緒に出掛けたりとかしてたんだよね(だから飲食業界には抵抗がなかったし興味もあった)。それで、学内の求人で今の会社の求人を見つけて入社しました。』
始めの配属は『銀座五丁目店』。同店は正式に「銀座ライオン」の店名を最初に冠した店舗でもあり、明治44年の開業当初から様々な業態を経て現在その土地には「ライオン 銀座五丁目店」が営業している。
そこでの1年は、ベテラン先輩社員が注いでいる隣でのグラス洗いがほとんどだった。グラスの状態はビールの泡立ちや見た目だけでなく味わいにも影響するため、どんなに忙しくとも汚れやすすぎ残りがないように、毎日何百ものグラスをひたすら丁寧に洗う日々。お客様に自身の注ぐビールを提供するのは数年先の話であった。その後新宿の店舗に異動となり、徐々にビール注ぎを担当するようになっていった。
『注ぎ方について先輩はほとんど教えてくれなかったね。職人の世界って、やっぱり見様見真似で自分でやって覚えていくしかないんだよね。入社当時はマニュアルなんてものもなかったし、日々の経験の中で注ぎ方を確立していった。38歳の時に初めてマニュアルを自分が作ることになって、それを持って全国の店舗スタッフの指導に飛び回ったりしたもんだよ。』
新宿勤務ののち新橋や船橋など各店舗の転勤を経験し、現在の「銀座七丁目店」配属になったのが38歳。今までの配属店舗とは異なり、ビアカウンターが客席全体から見える位置にあるためはじめはかなり緊張したそうだ。当時は「カウンター長」として多い時には1日1000杯以上のビールを注ぎながら、新入社員や新店舗の技術指導として全国に出張を重ねることもあった。
ひたすらビールと向き合い、注ぎ続けて58年。「ライオン銀座七丁目店副支配人兼全館生ビール担当」として定年を迎えるまでに多くのお客様との交流があり、当時のお客様が今でも慕って通ってくれることも多いのだとか。
『いつもジョッキで飲んで行かれるお母さんがいてね。6歳くらいの子を連れて、ビヤカウンターの近くで飲んでいるからそのうち話しかけるようになって。お子さんがいつもお礼の手紙置いて行ってくれてね、当時はオレンジジュースを飲んでて「ビールは二十歳になってからだね~」とか言ってたけど大人になってから飲みに来てくれたり。「自分の子供が二十歳になったら注いでくれ!」っておっしゃってくれるお客さんも多くて、、親子2代、3代と世代を超えても愛してもらえるのは嬉しいよね。』
合わせて海老原氏はこうも語る。
『年を取ってから、あーすればよかったなあと思い返すこともいろいろある。例えば、「泡を少なくして出してほしい」と毎回オーダーするお客様がいてね、当時は「泡がちゃんとある方が美味しさが長続きする」と思っていたから、誰に対しても(液体と泡の比率を定量の)7:3で出していた。そのうちそのお客様が来なくなっちゃって。仕事帰りの楽しみで来てくれていたのになぁ、、、と今は一番悔いが残っている。』
『職人さんって自分がある程度仕事ができるようにならないといけない。でも、自分の技術に満足してはいけない。さらに一歩超えてお客様目線=「常にお客様第1」でなきゃいけないね。自分の注いだビールを『こんなビールは飲めない、注ぎなおせ』って言われたこともある。それでもお客様と真摯に向き合った結果、ファンになってくれたお客様もいる。』
今もこうして多くのお客様が同氏を慕い、わざわざ「海老原ビール」を飲みに訪れる。きっとそれはビールの味わいはもちろん、「お客様第1」の精神の賜物なのだろう。
ビール全盛期を支えた「タンク式」×「スウィングカラン」
海老原氏が「生ビールの達人」と称されるのには、いくつかの理由がある。
1つはビールと向き合ってきた年月と培われた注ぎの技術。そして、「特殊なシステム」から提供される、「一度注ぎ」によるその究極の一杯が多くのお客様を虜にしてきた点だ。
まず、そのシステムについて解説していこう。
現代の通常の飲食店において、樽生ビールは瞬冷式サーバーと泡付機能付きの2口カランで注がれるのが一般的である。10Lや20Lサイズといったステンレス製の樽に入ったビールを酒屋や卸業者などから購入し、それをビヤサーバーに繋ぎビールを提供する。メーカー推奨のガス圧に調整し、最低限の洗浄やメンテナンスを行い、ビールが短期間で回転(樽が開栓してから空になるまで時間がたちすぎない)さえしていれば、少し練習しただけで(しなくても)十分に「誰でも」美味しいビールを提供することができる。
↓詳細はこちらの記事もご覧いただければ幸いである。↓
『ビール注ぎを継ぐ-スイングカランを含めた注ぎ手の技術を学ぶ-』
「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」においては、「サッポロ生ビール黒ラベル」を今では非常に珍しい「ビールタンク」に貯蔵し、それを「スウィングカラン」という特別な注ぎ口で抽出している。
地下に1000Lのビールタンクが6基備え付けられており、ビールは工場から直接タンクローリーで運ばれタンク内に注入される。営業中はそこから1階ビヤホールのビヤカウンターまでビールホースを通ってビールが供給される仕組みだ。
加えて、「スウィングカラン」というビールの全盛期、昭和初期に主に活躍していたビールの抽出口を採用している。現代の2口カランとは異なり、うまくビールを注ぐにはある程度の技術が必要な設備である。
これらをうまく扱いこなし「手入れの行き届いたビール = 良いビール」を提供するには、そもそものビールのコンディショニング(冷却・静置)や日々の「清潔・洗浄」、提供するビールの状態(開栓から何日目か、ビールへの炭酸ガスの溶け込み具合等)を見て炭酸ガス圧の調整や注ぎの所作の微調整を行うなど、日々ビールと向き合う必要がある。
(逆に同店のビールを求めて足繫く通う人々が絶えないのは、これらがすべて整った状態で「良いビール」が常に提供されているからである。)
また、大手ラガービールを含めた大抵のビールは「鮮度」が非常に重要になってくる。発注時の取りすぎなどに注意が必要なのはもちろん、生樽(又はタンク)が開栓して数日内にその樽(タンク)内のビールを使い切らなければ、液体に炭酸ガスが過剰に溶け込みピリピリとした口当たりや香味の変化した「別物」の飲みづらいビールになってしまう。
故に、1000L(350ml缶換算で約3000杯弱)という量のビールを短期間ではける店舗はそうそう存在せず、いまだに都内で同サイズのタンク式を採用しているのは同店のみであると私は認識している。
(逆にそれだけのビールが今もなお1店舗で消費されているということだ…!!! 『ビヤホールライオン 銀座七丁目店』は「1899年から1世紀を超える歴史を持つ、現存する日本最古のビヤホール」であり、令和4年2月17日付で、銀座ライオンビル(建物全体)が国の登録有形文化財(建造物)に登録されているが、まさにその冠にふさわしいビールの聖地である)
*なお、「スウィングカラン」については「注ぎ」や「注ぎ分け」などに焦点を置く店舗が全国に存在し、使用・導入例はそれなりにはある。
「海老原ビール」の神髄:「一度注ぎ」
次に、海老原流の「一度注ぎ」についても述べさせていただく。
「一度注ぎ」というのは、ビールの液体を注ぎながら泡も同時に形成しつつ一度で注ぎ切る注ぎ方を言う(但し、同じ一度注ぎでもガス圧や使用設備などそもそものセッティング、銘柄やグラスの形状、注ぎ手の理想とする味わい等で所作は変わる。一度で注ぎ切る=一発勝負で見た目や味わいを調整する必要があり、コントロールにはある程度の鍛錬が必要である)。
その弾けるような泡とのど越しは、食中酒としての日本のラガービールの味わいには非常に適しており、まさに水のように抵抗なくのどを通っていく。
同店では専用のグラスを採用しており、「小グラス(金口グラス)」「中ジョッキ」の注文が特に多いが、持ち方は下記のように構える。
多くの注文を一度に注ぐ際はグラスを持ち替えながら「連続注ぎ」を行うため、安定かつ両手間の移動を干渉しない構え方となっている。
なお、こちらと同様の内容とはなるが、「海老原ビール」のポイントは下記のとおりである。
- 目指すビールの味わい
日々、工場出荷時100%に近い品質のビールをご提供。「手入れの行き届いたビール」、それが良いビールである。
上記をご提供する為にいくつもの工程がある。ビールの鮮度を保つため、発注管理も非常に重要。
注ぎの前段階の準備を手を抜かずに行うこと。 - 技術的に注意している点
右手11度・左回転・最後は水平に。
ビールに適度な回転を与え早く泡の中に苦みの成分(イソフムロン)が入るよう注いております。注いだ後は泡の見た目・泡の持ち具合等も判断材料。また、泡とビールが早く分かれること。
『注ぐ時に心がけていることは「体調を整える」ことと「常に平常心でいる」こと。究極的にはグラスジヨッキではなく持ち手の中に注ぎこむ感じです。
ビールの状況を常に知っておくことが重要。開栓して何日目か、残量、ガス圧など、それを把握することが美味いビールを注ぐための一歩。日々の洗浄とビールを見極める技術が注ぎ手には必要と感じます。』
▲4連続注ぎ・ロングVer.(手元拡大)での注ぎの動画はこちら▲
仕込み8割:日々の「発注」が一番大変だった
58年の年月が生み出した丁寧かつ無駄のない所作に思わず見入ってしまうが、注ぎはもちろん、その前段階の準備に本当に神経を使ったそうだ。
例えば、備え付けのタンクにビールを詰めるということはもちろん、空になったら次のビールを補充する前に中を一度洗わないといけない。1-2日で1つの1000Lタンクが空になるのだが、当時は毎回中に人が入り時間をかけて手で洗浄していた。洗浄後、ビールが酸化しないよう炭酸ガスをタンク内に満たしてから、タンクローリーで工場から直送されたビールをタンクに充填する。日々これを繰り返すのだが、スケジュール管理がずれると納品に支障が出てしまう。
特に同店の場合、品質管理のために「1日寝かせて炭酸ガスを安定させ2℃程度まで冷却させる(=冷却・静置)」ことを日々欠かさず行っていることもあり、納品されたビールをその日に提供することはできず、ビールの発注は非常に気を遣う業務だったそうだ。
『タンクの場合洗い終わってないとビールを詰められないから、それに合わせてタンクローリーを呼ばなくちゃいけない。生樽の場合も注文しすぎるとビールの鮮度に関わってくるし、(品質保持の関係で冷蔵保管を徹底しているため)収納するスペースも限られてくる。逆に発注を見誤って足りなくなると一日に提供するビールの量が桁違いだからさ、もう大変なわけ。足りないときは営業中にスタッフで手分けして近隣の店舗にトラックで走り回ったりとかしたよ』
最初は経験則で発注を行っていたが、営業前と後にビールの残量をノートにチェックするように変更。それを毎日欠かさず、天気予報やニュース、営業状況などを記し続けた。日々の美味しいビールの為に蓄積してきたその膨大なデータが現在にも活かされている。
『こうやって続けてこれたのはお客様はもちろん、店舗スタッフをはじめ皆様の多大な援助があったからこそです。今は後任もしっかり育ってくれている。疑問がある場合は言ってもらったほうが良いコミュニケーションもできるので、ぜひお店に足を運んでみてください。あと、泡はなるべく残しながら飲んでほしいかな、その分美味しさが続くので(笑)』
「海老原ビール」を飲める機会は少なくなってはいるが、確実にその意志と技術は注ぎ手に、そして飲み手の中にも引き継がれていくことだろう。
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。