【連載ビール小説】タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~ 幕間|空即是色 前編
ビールという飲み物を通じ、歴史が、そして人の心が動く。これはお酒に魅せられ、お酒の力を信じた人たちのお話「タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~」のサイドストーリー。
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「かわいいね」
いままで何百回と言われた言葉。おぞましく、ねっとりと貼りつくようなこの言葉を振り払うよう、夏は山の中を走り続けていた。
家を飛び出してきた。いや、正確には本当の家ではなく「引き取られた家」だ。腐った泥のような、思い出すだけでも吐き気のする場所。
昨年両親が死に、夏は地主の家に引き取られた。
「なんとかわいい子だろうか。さあこっちへおいで」
そういって地主は度々夏を部屋に招き入れた。でっぷりと太った腹に夏を乗せ、ごつごつとした手で髪を撫でる。
6歳だった夏は、ただ愛でられるままにこにこと笑っていた。「かわいい」は両親から愛情とともにたっぷりと与えられた言葉だったし、純粋に嬉しかった。しかしその「かわいい」と地主の言う「かわいい」が全く別物だった。
ぼんやりとした違和感が輪郭を持ち始めた頃、夏は鏡に映った自分の姿を見ると頭が痛くなるようになっていた。
華奢な手足に、真っ白な肌。柔らかく潤んだ大きな目に、筋の通った小さな鼻。
そのどれもが歪んで、どす黒くて、忌々しかった。だから逃げたのだ。こんな場所にいるくらいなら、どこかで野垂れ死んだ方がましだった。もう二度と地主の部屋に足を踏み入れたくはなかった。「かわいい」という言葉を耳元で聞きたくなかった。
どのくらい走ったのだろう。履いてきた草鞋は切れてしまった。ゼイゼイと耳の中から聞こえる自分の呼吸と、血のにじむ足の裏。気づけば日はだいぶ傾き、あたりは紅色に包まれ始めている。
夏は木の根に足をとられ、盛大に転んだ。打ち付けた頭がジンジンと痛む。
(ああ、もう無理だな)
一度横になったことで、自分がどれだけ疲れていたか認識してしまった。ひたすら走ってはきたが、ここから行く当てがあるわけではない。夏は夕暮れの中に浮かぶ白い月をぼんやりと眺めた後、瞼を閉じた。
「ちょっとあんた、こんなところでなにしてんの?!」
どのくらいの時間が経ったのだろうか。突然頭上から声が聞こえ、夏は驚いて目をあけた。薄青の空気の中、籠を背負った女の子がこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫?立てる?」
猫のような顔の子だな。それが第一印象だった。大きく吊り上がった目、そして喋る度、口元から八重歯が覗く。夏はコクンと頷くと、女の子が差し出した手を取った。
「最近ここいらは質の悪いイノシシが出るんだ。こんなとこで寝てると死ぬよ!あんた家は?」
夏が黙って首を振ると、女の子は「あ、そう」と頷く。
「訳アリってわけね。じゃあ一緒に行こうか」
夏が驚いた顔をすると、女の子はおかしそうに笑った。
「あんたの目、飛び出そうな程にでかいね。心配しなくていいよ。うちも親いなくてさ。今は寺にお世話になってんの。住職いいやつだから安心してきなよ」
女の子は夏の手を強く握る。
「わたしはねね。あんたは?」
「……夏」
「ふうん。いい名前じゃん。さ、早くかえろう」
歩くこと半刻ほど。山の中の寺には、ねねの他に3人の身寄りのない子供たちがいた。住職はびっくりするほど長くて白いひげを生やしていて、みんなに「仙人」と呼ばれていた。
ねねに連れられ、寺に行った日。住職は何も聞かずに夏を寺に招き入れ、あたたかなきのこ汁を食べさせてくれた。
パチパチと燃える火、そして入口に積み上げられた藁のやわらかなにおい。そこには不思議な安心感があって、気づけば夏はねねにもたれかかるようにして眠っていた。
薄れゆく意識の中で、住職の声がぼそりと聞こえたのを覚えている。
「好きなだけここにいればいい」
―続く
※このお話は毎週水曜日21時に更新します!
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