【連載ビール小説】タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗 58~樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ弐拾参
ビールという飲み物を通じ、歴史が、そして人の心が動く。これはお酒に魅せられ、お酒の力を信じた人たちのお話。
※作中で出来上がるビールは、実際に醸造、販売する予定です
翌日。喜兵寿は朝日と共に動き出した。今日は鮑を口にすることができる、そう思うだけでどうにもそわそわと落ち着かない。手早く身支度を済ませると、一人朝市へと向かった。
生のわさびがあれば……そう思った市は思った以上に宝の山だった。美しい紅色の「松坂赤菜」やゴツゴツと大きな「伊勢いも」、ひょろりと長い細い「ずいき」。普段目にすることのない色鮮やかな野菜は、どれも瑞々しくおいしそうで、ついつい抱えきれないほど買い込んでしまった。
背負籠に食材を詰め込み、意気揚々と船に戻ると甲板でねねが煙管をふかしていた。
「喜兵寿じゃないか、朝餉も食べずにどこに行ってたんだい?」
こちらを見てにっこりと笑うその顔は、昨日よりも更にこけて見える。
「ちょっと朝市にな」
どさりと籠を降ろすと、喜兵寿はねねの横に座り、煙管に火をつけた。
暑さもピークを過ぎたのだろう。時折心地のよい風が吹き抜けていく。二人はしばらく黙って煙を吸っていたが、ふとねねがバタンと後ろに倒れた。
「あああああ、疲れた!まったくもって疲れたよ。普通は1月かかるところを数日で修理したんだ、ひょっとしたらわたしは船乗りよりも、船大工の才能の方があったのかもしれないね!」
目をつぶったまま、ねねは大きく手足を伸ばす。
「修理は終わったのか?」
「終わったよ。完璧だ。明日には出航できる」
ねねはそういって喜兵寿の方を向き、にやりと笑う。
「急いでなんとかって酒を造らなきゃ、2人とも死んじまうんだろ?」
徹夜でフラフラになりながら船を直していたねね。彼女は自分たちのためにこんなにも頑張ってくれていたのか……
「あ、勘違いしないでおくれよ。別にあんたたちのためだけじゃないからね。うちらも一刻も早く客先に向かわなきゃならないからね」
ねねは仰向けのまま器用に煙管を口に運ぶ。
「っていっても、積み荷のほとんどは海に沈んじまったわけなんだけどね。ああ、困った困った」
そういってねねはカラカラ笑っていたが、その瞳の奥はずっしりと重たい色をしていた。
「これから、どうするんだ?」
「そうさねえ。堺で吊し上げの刑にされるかもしれないねえ」
ぎょっとした喜兵寿を見て、ねねは再び笑う。
「冗談だよ。嵐の危険がついてまわる船には、積み荷の損害補償ってもんがあってね。もし嵐で積み荷を捨てなきゃならくなっちまった場合、その損害は荷主同士が公平に負担するんだよ」
「そうか、そういう制度があるのか!それなら今回の件も……」
「でもこの制度、荷物が捨てられちまった荷主も、捨てられなかった荷主も同じだけ金銭を負担しなきゃならない、ってやつでさ。とにかくものすごく揉めるんだよ。今回の積み荷は、堺の商人が絡んでいるだろう?こちらもたっぷりと銭を要求されるだろうね。本当に吊るしあげられたっておかしくないよ」
ねねは起き上がると、ぶるりと身体を震わせた。
「堺に着いたら、荷主を集めて会合を開かなきゃならない。本来なら港で積み荷を降ろしてお終いだけど、今回は堺の町まで行くとするよ。あ~あ、あの町騒がしくて本当は好きじゃないんだけどね」
青々と穏やかな海を見ながら、煙管をくゆらすねねを、喜兵寿は黙ってみていた。目は落ちくぼみ、髪は乱れ、ほんの数日の間に一回り小さくなったように見える。それでも身体の中には芯が1本通っており、凛とした佇まいだった。
「なあ、ねね。なぜそんなに仕事に人生をかけられる?」
喜兵寿が思ったままを口にすると、ねねは一瞬驚いたような表情を浮かべる。
「それはそっちも同じでしょう?柳やの喜兵寿といえば、酒に命捧げてるって巷では有名だよ」
ねねは笑った後、「そうだねえ、わたしが仕事をする理由かあ」と首を捻った。
「うーん……仕事をしてたら、ここで生きていてもいいって思えるからかな。自分の居場所があること程ありがたいことだよ。孤児だったわたしを引き取ってくれた、新川屋あのくそ親父には頭があがらないよ。まあ、あいつは今や頭さえ持ち上げられやしないけどね」
ねねの言葉が一瞬、氷のような冷たさを持つ。「それは一体……」喜兵寿がその意味を考える間もなく、後ろからなおの大きな声が響いた。
「お~い!喜兵寿、ねね!鮑のおっちゃん来てくれたぞ~」
見ると大きな籠を抱えた男が、こちらに向かって手を振っている。
「じめじめした話はこれで終わりだ!さ、明日の出航に備えてご馳走に与ろうじゃないか」
ねねはすくっと立ち上がると、「今行く」となおの方に向かって駆け出した。
―続く
※このお話は毎週水曜日21時に更新します!
協力:ORYZAE BREWING
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