J-BREWERS にっぽんのクラフトビールのつくり手たち 03-02_佐藤航&佐藤孝紀
03-02
佐藤航 SATO Wataru
いわて蔵ビール オーナー
佐藤孝紀 SATO Takanori
ヘッドブルワー
「東北の酒蔵が醸し出すビールには、
地道な挑戦と遊び心が凝縮されていた」(後編)
一関出身の佐藤孝紀(33)(さとうたかのり 以下、孝紀)は、一関市内の山目小学校、山目中学校、一関商業高校と進み、大学時代に秋田で一人暮らしを始める。小学校の頃はスイミングスクールに通い、バタフライで県のベスト10に入る成績を残していた。水泳の練習はハードだったが、練習の結果がダイレクトに自分に跳ね返ってくる個人競技は自分に向いているなという感覚はあった。それでも水泳を突き詰める気はさらさらなく、中学に入るとテニス部に入部する。実はテニスがやりたかった訳ではなかった。早く帰って楽できる部活なら何でもよかったのだ。とにかく友だちと遊びたかった。その思いは高校でも変わらず、帰宅部。
「一関って、街には何もないので、ただただ友だちの家に溜まって話してたって感じですね」
大学も「バイト仲間と遊んで、遊んで、遊んで(笑)、五年通った」という。中でも、秋田市内のラーメン店のバイトは孝紀の記憶に残っている。
「つくるのを任されていたんですよね。それはすごく楽しかったんですが、けっこう人と接するのが苦手というか……」
バイトに明け暮れて大学五年生になってしまった孝紀を心配して「卒業する気がないのなら一関に帰ってこい」という連絡が家から入る。観念した孝紀は一関に戻り、職を探す。アルバイトでもいいかなと思っていたが、運良く合同就職説明会が開催されることがわかって、それに参加してみることにした。
当時、航は遮二無二ビール醸造に向き合っていた。醸造、出張、会議とほとんど寝る間もないような忙しさだった。それを見かねた航の母・絋子(こうこ 専務)が合同就職説明会で人材を見つけてくることにした。説明会当日、ふらふら歩いてきて「ここで働きたいんです」と言う若者がいた。それが孝紀だった。
孝紀の希望はビールづくりだった。孝紀には小さい頃の思い出があった。父に連れられて久慈の鮨屋のカウンターで鮨を食べたことだ。そのときの鮨職人の姿にかっこいいなぁと憧れたことが頭の片隅に残っていた。ものをつくり出す職人にどこか惹かれる気持ちがあったのだろう。漠然とビール職人を希望したのはそういった潜在意識が働いたからかも知れなかった。
蔵の状況を考えると、それはタイムリーな希望だったに違いなかったが、面接をした航の母は、喫煙者で大学も中退、チャラチャラしてるから本気じゃないだろうと思い、「あなた、ウチだけじゃなくて他も見てきなさい」と突き放した。
ところが、会場内をふらふらっとしたかと思うとまたやってきて働きたいというので、航の母はその気持ちに条件付きで応じることにした。
「調理場で働きなさい。暇なときにビール工場をみてもいいから」
2003年、孝紀は世嬉の一酒造のレストランで働き始めた。白衣を着て皿洗いや下ごしらえを三か月。そしていつからか気づくと航の仕事を覗くようになっていた。航にしてみれば、「こいつなんだべな」ということになる。しかし航は仕事に追われて休む暇もなかった。それで「孝ちゃんちょっと手伝って」と声をかけたのが二人が組む最初だった。孝紀は樽の洗浄やラベル貼りから航を手伝うようになった。
航と孝紀の二人三脚が始まる
あるとき、「航さん、これなんか変な臭いしますよ」と言って、孝紀がビールを差し出した。びっくりして航が確かめると「お前タバコ吸ったからわからないんだろ!」と怒ったことがあった。航は「本当に社員になりたいんだったらタバコやめろ」と言い渡す。それでも孝紀はしばらくの間、隠れて磐井川の堤防で吸っていたらしい。さらに航は高校の生物の教科書を渡して勉強するよう促す。そうやっていくうちに、だんだん孝紀が本気なっていった。
航と孝紀はずいぶん喧嘩もした。航が思わず「お前、そんなんじゃ醸造士なんかになれるわけねえだろう」と言ってしまったことがあった。孝紀は、家が近かったこともあって怒って帰ってしまった。それには航も慌てた。言い過ぎたかなと思って孝紀の家に謝りに行くと、そこに孝紀はいなかった。電信柱の陰から航のことをずっと見ていたのだった。一時間ほど経った頃だろうか、孝紀がひょこひょこっと出てきて「航さん、すみませんでした」と謝った。「俺も言い過ぎた。すまなかった」と航も応じる。そういうやりとりを繰り返しながら孝紀は醸造士になっていった。
二人で東京・両国の「麦酒倶楽部ポパイ」へビールを飲みに行ったことがあった。そしてヒューガルデンホワイトのあまりの旨さに感動してしまう。当時、ほかではなかなか味わえないような素晴らしいコンディションでサーブされていたので旨さもひとしおだった。孝紀は思わず「こんなビール、つくりたいです」と口に出していた。航には孝紀が感動のあまり目を潤ませているように見えた。
丹羽氏がいわて蔵ビールにもたらしたもの
孝紀はどんどん醸造の仕事に意欲を見せるようになってきてはいたが、航から見ると、すべてを任せるにはまだ少々頼りない感じがしていた。そんなとき、今は醸造を止めてしまった博石館ビールから丹羽智(現アウトサイダーブルーイング)に来てもらえることになった。そのことに孝紀としては戸惑いもあったという。
「うちのビールと博石館のビールが全く違うものだったので不安でした」
ところが、丹羽は孝紀を立てつつ、自分のもっているものを丁寧に教えてくれた。彼は朝早く出社し、事務仕事も含めて実にきっちりとこなし、仕事が終わればさっと帰って行く。いろいろな意味で潔癖な仕事ぶりで、それがいわて蔵ビールにいいものをもたらした。「丹羽は背中で仕事を教える風だった」と孝紀は当時を振り返る。
孝紀にとって一番の財産となっているのは自然発酵ビールとバーレーワインののつくり方を教わったことである。
自然発酵ビールといえば、空中にある野生酵母を使って発酵させるベルギーのランビックが有名だが、いわて蔵ビールでは干し柿に付着する自然酵母を使って醸し出す。干し柿に付いた自然酵母はおだやかな印象をつくり出し、フローラルな香りと全体をまとめるやわらかな酸を生み出す。
バーレーワインは、ワインほどの高い度数が特徴の大麦のビールだ。これらの技術は丹羽がこの蔵にもたらした。
経営に専念する航の決心
2011年3月11日。
孝紀は東京の「麦酒庵」で開催されたイベントのために出張に来ていた。会社に電話をし、前日のイベントの報告をし、丹羽とイベント用ビールの補充について打ち合わせているところだった。すると電話の向こうの丹羽の様子が一変した。
「ああ、やばいやばい! 地震だ!」という叫びとともに通話が途切れた。
そのとき孝紀にはすぐに状況を知る由はなかったが、尋常ではない地震が起きたことだけはわかった。
結局、孝紀が一関に戻れたのは東日本大震災から四日後のことだった。一関は内陸部にあり、沿岸部のような津波の被害はなかった。それでも市内には倒壊した家屋がいたるところにあり、世嬉の一酒造の登録文化財である土蔵や石の蔵六棟で、壁の崩落や亀裂、傾き被害などを被った。ビール工場では、醸造タンクの固定ボルトが引きちぎれ工場内を動き回って生産停止。ただ幸いなことに世嬉の一酒造には人的被害はなく、蔵もどうにか形は止めていた。
航の父・母は心労で倒れ、航にとってはここが踏ん張りどころだった。航は父から「大手の企業にはなんとか支払いを待ってもらえ。ただ小さな企業や地元の企業さんには払えないとお互い迷惑になるから、金を借りてでも支払いなさい」と言われ、銀行から金を用立て支払いに充てる。しかし、仕事が稼働していない中、売り上げは立たない。また借金をして支払をする。その繰り返し。社員にも休業手当として給与の六割を支給するのがやっとだった。
そんな中、去って行く社員も出始めた。そして丹羽も。
航は四代目の社長として会社全体の立て直しに邁進せざるを得なくなった。ビール醸造を孝紀に委ねる決心した。
いわて蔵ビールを特徴づけるもの
航にはずっと考えていることがあった。どうしたら東北らしいビールがつくれるのかということだった。そんな思いを抱えている中、航は陸前高田で牡蠣の養殖業者に出会う。
「陸前高田の牡蠣は築地では高値で取り引きされているそうで、広田湾の牡蠣というブランドになっているそうなんです。ただ岩手県では流通していなくて知られてない。そんなことを、たまたま知り合った陸前高田の牡蠣の養殖業者さんに聞いて、あ!、これだと思って」
世界には牡蠣を使ったオイスタースタウトというビールスタイルがある。18世紀にギネスが登場し、牡蠣とスタウトが絶妙のハーモニーを奏でることが知られていた。となれば、両方を合わせれば旨いビールができるのではないかと酒飲みは考える。それがオイスタースタウトの始まりである。20世紀前半にもっとも知られたオイスタースタウトは、英国マン島にあるキャスルタウン醸造所がつくったものだったというが、1960年代に生産中止となっていた。
広田湾の牡蠣を使ったオイスタースタウトは、まさにここでしかできない東北らしいビールとなるだろう。評判が広まれば、地元の人の喜びにもなる。航は行動を起こす。
「最初、漁協さんに、オイスタースタウトっていう牡蠣のビールつくりたいんですけど、牡蠣を卸してくれませんかとお願いしたら、何言ってんだこいつは?という雰囲気であまりに変な顔をされたんで、いったん引き下がりまして」
航は漁協で牡蠣を購入して試作品を仕込む。後日、それを漁協に持ち込んだ。
「けっこうイケるんだね」という反応が返ってきたから、もう話は止まらない。
「牡蠣養殖業者さんと仲良くなりまして、どんどんオイスタースタウトつくろうって盛り上がりました」
牡蠣の殻は発酵をよくし、身は黒ビールに奥行きを与える。コクがあるのに後味はさっぱりとしていて、魚介類によく合う。
大学時代、航の下宿で飲んでいたとき、広島の友人は広島弁でもみじまんじゅうを自慢し、大阪出身の友人は大阪弁でお好み焼きの自慢をしていた。その友人たちの姿が、実家に戻ってきてから航の中でときどき甦っていた。あのときの仲間のように岩手を自慢できるものづくり。それが航のオイスタースタウトなのだ。2006年にはジャパンビアカップで金賞を取り、2008年には、ワールドビアカップでシルバーアワードを獲得。いわて蔵ビールを代表する一品となった。
そのオイスタースタウトも、東日本大震災の影響で他県産の牡蠣を使わざるを得なかった状況からようやく脱し、2013年、広田湾の牡蠣を使ったオイスタースタウトが復活する。
航が見つけた日本らしさ
もう一つ、航が生み出したビールがある。「ジャパニーズハーブエール山椒」だ。
「たまたま、家内と浅草に遊びに行ったとき、鰻屋に入ったんです。ビールをグラスに注いで飲もうとしたとき、鰻屋ですから山椒が目の前にあって。試しに山椒の粉をビールに入れてみたら、けっこういけたのでその気になりました」
ヱビスビールに山椒の粉をかけて飲んでみたのだという。それに倣って山椒の粉で最初の醸造を行ってみた。すると、枯れ葉のような匂いがして全く美味しく仕上がらない。そこで、蔵の庭になる山椒の実を入れて100Lだけつくってみた。これがなかなかいい具合だった。柑橘系の香りが生まれ、奥の方から山椒のスパイシーさがほどよく喉を刺激する。それを飲んで、駆け出しだった孝紀が一つのアイデアを思いつく。柚子山椒にした方が高級感が出るというのだ。ところがこれは上手く行かなかった。
「柚子は難しいんですよ。香りがきつすぎるとトイレの芳香剤みたいになってしまって。最終的に柚子を入れるのはやめようという話になって、山椒だけにしました」
ベースのビールスタイルを孝紀が変えていき、山椒の実の漬け込みのタイミングなどを計るといった見えない試行錯誤が三年ほど続けられた。そして現在のジャパニーズハーブエール山椒となる。
父の教えを大事にする
もう一つ、いわて蔵ビールらしいビールがある。「福香」ビールである。
北里大学海洋バイオテクノロジー釜石研究所(2012年4月大船渡市へ移転)は、岩手県の支援の下、樹齢360年余りを経てなお咲き続ける国の天然記念物「盛岡石割桜」をはじめ、岩手県内の名花名木から酵母を採取。単離・解析を進めていた。ところが、東日本大震災で酵母を管理していた冷蔵庫が流出。その冷蔵庫をがれきの中から発見しなんとか酵母を救出する。2011年5月に、岩手県工業技術センターで助け出された酵母を培養。「盛岡石割桜」から採取した酵母がビールやパンづくりに適していることがわかったという。
その結果をもって、北里大学海洋バイオテクノロジー釜石研究所から笠井宏朗氏と猪又幸江氏が県庁の担当者と一緒に航を訪ねてきた。この酵母を使ってビールをつくってほしい。そういう話だった。
「県の担当の方に『なんでウチなんですか?』と聞いてみあると、『他のビール会社からは、変な菌を入れたくないということで断られた』からということでした」
他が駄目だったからというのは面白くない、と思うのが普通だろう。だが、航の考えは違っていた。
「まず、単純に面白そうだなって思いましたね。それから困っている人がいたら手助けしろと親父からは言われ続けてましたんで」
実は、この酵母を使ってビールをつくるという試みは、研究所の存続を左右するような挑戦でもあったのだ。航は父の言葉を思い出しながら、この申し出を受け入れた。6月から、本仕込み用に培養した石割桜の花咲酵母を使って100Lの試験醸造が繰り返されたが、ことごとく失敗。ようやく12月になって小仕込みで成功。酵母の再現性も確認し、2012年1月、3月出荷を目指しての醸造が始まる。
「このビールはがれきの中から救い出された酵母なんで、やっぱり沿岸の人たちのために使わなきゃいけないってずっと思いながら、何度も仕込んでいたんですよね。それで、被災した人たちに福の香りを送りたいから『福香』という名前のビールにしようと」
福香ビール4,000本の売り上げの中から一部を被災地に寄付しにいったときのこと。
「最初に持っていったのがオイスタースタウトの牡蠣の業者さんだったんですよ。でも、あまりにも被害額が大きくて。船流されて1億みたいな話なんで、福香ビールの利益の一部をお渡ししてもどうにもならないなと」
もう一つ、震災後10日も経たないうちに青年会議所の活動として陸前高田に物資輸送をした経験から航には感じることがあった。何かをもらい続けていると、どんなにしっかりした人でもやっぱり駄目になる。人は働かないと駄目だという思いだ。
それは「恩送り」を実現するビール
そのとき、航の頭の中に浮かんだのが、佐藤家で大切されてきた井上ひさしの言葉だった。
「恩送り(おんくり)」
恩をもらった人に、その恩を返そうと思っても叶うとは限らない。だから、もらった恩を次の人に渡していこうという考え方だ。航は福香ビールを、恩送りのキーアイテムに据えることにした。恩送りプロジェクトだ。
その仕組みはこうだ。福香ビールを購入していただいた利益の一部で、被災地企業の産物を購入する。その産物と福香ビールをセットにして次の人に販売する。それを繰り返していく。こうすることで購入者の思いが次の人へとつながっていく循環ができる。被災地の企業にとっては、施しを受けるのではなくて、自分たちの商品の対価として思いを受け取ることができる。また、福香ビールを通して新しい顧客接点をもつこともできる。本当にその産物が美味しければ、人々のクチコミによって広がっていくだろう。ビールの力だけじゃない。人々の思いだけでもない。被災地企業自身の力で立ち上がるそんな希望の連鎖なのだ。恩送りプロジェクトの第一弾には、釜石市・井戸商店の「いかウィンナー」(岩手産豚肉と国産するめいかでつくったウィンナーソーセージ)が採用され(終了)、第二弾として、気仙沼市・斉藤商店の根しょうがといっしょに煮込んだ「金のサンマ」が福香ビールとセットになる(限定470セット。なくなり次第終了)。
福香ビールは、2013年、フレッシュな花咲酵母によってまた醸し出される。
航と孝紀の相乗効果
航、孝紀それぞれの醸造の仕方にはけっこう違いがあるのだという。航は測定器を多用し数字で判断していくタイプ。また、以前いた秋田出身の女性醸造士は醸造学科出身で、やはり細かくきちんとつくる。ところが、孝紀はどちらかというとおおざっぱにつくっているように見えると航はいう。
「最近は細かくつくりの工程をみるようになってきましたけど、私とは感覚が違うところはありますね。でも、面白いのは、孝紀くんの方がコンタミネーション(汚染)を起こすことが少なかった。なんだか不思議ですねぇ」
「今はもう彼のやり方でやってもらっています。できあがったものに対していろいろ言うのが私の仕事です。『もうちょっとスッキリしたほうがいいよ』とか『最近なんかのっぺりしてるよね』とか(笑)。すると勝手に悩んで、勝手に良い方向にもっていってくれるので」
孝紀は、ビールには遊びがあっていいという。
「モルトもホップもいろいろ種類がありますし、酵母の種類もたくさんある。そこに副原料を加えるとすると、可能性は限りなくあります。その分、遊べる余地がまだまだあると思います」
航は、とあるブルワリーの先輩醸造士に「ブルワーを採用するんだったら、農家の息子がいい」と言われたことがあった。何より農作業のつらさを知っていて、醸造の大変さにめげることがないと。それに、農家出は失敗したときに「ああやって、こうやって、こうして、なんだか知らないけど、こうなっちゃいました」と自分のやったことを説明するのだという。勝手に自分で判断しない分、最終的には伸びるというのが、その先輩の持論だった。孝紀はまさにそれに当てはまる人材だった。
孝紀が言う遊びとは、ふざけることとは違う。たとえて言うならば、農家の創意工夫のようなものだ。種まきの時期を少しだけずらしてみる。天候を読んで水やりや肥料の量を変えてみる。そういう、すべて自分に跳ね返ってくるようないくつものトライアル。それが孝紀の言っている「遊び」の意味だと思う。
取材時にちょうど仕上がってきていたパッション・ウィートエールも、評判がいいだけに、孝紀は力が入ると言っていた。どこかに見えない彼の工夫が施されているに違いない。定番ビールの品質向上も彼の目指すところだ。いつものビールも、実は同じものではなく進化させる。そのためにもおそらく「遊び」が必要なのだ。失敗というリスクを背負ってでも。
航がビールづくりを通して目指すもの
航は経営者になってから、ビールづくりに対する考え方が大きく変わったという。
「醸造していたときには、もっと輸出をしたり、いろいろな場所にショップを出したりしたかったんですね。自分がつくったビールを評価してほしかったということなのかも知れません。
でも孝紀くんに全部譲ったときに考えががらりと変わりまして、孝紀くんの人生が良くなるようにしたいと思ったんです。彼だけではないんですが、いわて蔵ビールで醸造していることに誇りをもてるような形にするということが一番大切。そのためにやるべきことをやるという考えになりました。
『いわて蔵ビールさんも東京に出店しませんか』というようなお話をよくいただくんですけど、それが孝紀くんはじめみんなの人生にとってプラスになるんだったら出そうとは思います。
なので、自分たちのクラフトビールを世の中に広めるという意識よりは、お客さまといい関係をつくっていきながら、それが孝紀くんたちの人生にプラスになるようにする。そういう仕事が、最終的に僕の人生になるのかなと今は思っています」
航は東日本大震災後一年経って社長に就任した。そのとき、社員に話したことがあるのだという。
一つは、みんなで創造的な仕事をしながら、自分たちにしかできない仕事をして、その力で給与を上げていこうと。もう一つは、何かの役に立つようなことに取り組んで、心が豊になるように働こうという話。航は65歳で社長を辞し70歳で会長職を退くと決めているそうだ。のちのち、社員を社長にしたいとも。それは、世襲企業からより公的な企業に脱皮するということだ。
今や、ビールづくりは、そうした航のビジョンを支える創造的な事業となった。東北の蔵らしい実直さと、どこかゆるい、遊びと工夫のないまぜになったスタンス。いわて蔵ビールは、独特のポジションを得つつあるように見える。
■
東京・池袋の西口公園。いわて蔵ビールのブースで裏メニューのIPAを購入した。担当の吉田博幸がニコニコしながら「はい、インド・ペールエールです」と渡してくれた。インディア・ペールエールではなく、インド・ペールエール。それはガラムマサラを使ったビールだった。航と孝紀が近くの木陰から、ニヤッとしながらこちらを伺っているような気がした(了)。
BJA・1期生 高山伸夫
<主要参考文献等>
●「世嬉の一酒造HP>蔵元について」
http://www.sekinoichi.co.jp/kuramoto/about.html
●「世嬉の一酒造 前社長が(有)市川商店に宛てた手紙」
http://www.e-sakaya.com/sekinoichi/img/mail.jpg
●「世嬉の一酒造 蔵元だより>ジャパニーズハーブエール山椒の秘話」
http://sekinoichi.jugem.jp/?eid=651
●「日本ビアジャーナリスト協会 いわて蔵ビールから「ジャパニーズハーブエール 山椒」発売」
https://www.jbja.jp/archives/2625
●「世嬉の一酒造>いわて蔵ビール>福香ビール」
http://www.sekinoichi.co.jp/beer/indexfukukou.html
●「一関と文学」
http://www.teganuma.ne.jp/ichi/bungaku/
●「岩手河川国道事務所平成23年度業務概要」
http://www.thr.mlit.go.jp/iwate/jimusho/torikumi/11_gaiyou/kasen_ichinoseki_iwaigawa.html
●「一関観光ガイド」
http://www.ichinoseki-kankou.jp/course/main.html
●『世界ビール大百科』クリスティン・P. ローズ 、マーク スティーヴンス(著)田村 功(翻訳) 大修館書店
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〒021-0885
岩手県一関市田村町5-42
TEL:0191-21-1144
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J-BREWERS にっぽんのクラフトビールのつくり手たち
01_鈴木真也(ベイブルーイングヨコハマ)
02_鈴木等&由美子(麦雑穀工房マイクロブルワリー)
03-01 佐藤航&佐藤孝典(いわて蔵ビール)前編
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。