ピエール・セリス氏 死去
ベルギーより悲しいお知らせが届きました。
ヒューガルデン・ホワイトを復活させ、ホワイトビールというスタイルがベルギー中に定着するまでに広めた偉大な人物、ピエール・セリス氏が4月9日、癌のため86歳で亡くなりました。
たまたま次回の愛知大学ベルギービール講座のテーマはホワイトビール。
奇しくもそのカリキュラムをアップデートしようとしていた時に訃報を知りました。
今週はセリス氏にまつわるビールを飲んで追悼したいと思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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■ホワイトビールとピエール・セリス氏について
ヒューガルデン村では1000年代前半から醸造が行われていたと考えられており、村の資料館に保存されている文献には、すでに1318年にはビールが醸造されていたと記されています。
15世紀にはホワイトビールの醸造が始まりました。
1890年には、人口2000人に対して過去最大の35の醸造所が出現。
なんと57人に1醸造所という割合です。
しかし1900年代に入ると、ピルスナービールとの競合、そして酒税の引き上げのためホワイトビールの醸造所は激減。
1957年には最後のホワイトビール醸造所であるトムシン醸造所も閉鎖されました。
トムシン醸造所の隣に住んでいた牛乳屋のピエール・セリス氏は以前よりビール醸造に興味を持っていました。
1965年、彼は牛の仲買人をしている父親から借金し、廃業した醸造所から設備一式を買ってきてにホワイトビール造りに着手しました。
当初、年配のビールファンが懐かしがって飲んでくれると考えていましたが、実際にはナチュラルなビールだということで若者に受けました。
ホワイトビールの人気は一気に広まり、醸造所は急速に大きくなりました。
ところが1985年、デ・クライス醸造所は火事で一部が焼失。
セリス氏一人の財力では再興することができないほどになってしまったため、インターブリュー社(現アンハイザー・ ブッシュ・インベヴ)の傘下に入ることとなりました。
一方セリス氏は1992年にアメリカに渡り、テキサスのオースチンにブルワリーを設立。
セリス・ホワイトというベルジャンスタイルのホワイトビールの醸造を開始しました。
グレート・アメリカン・ビア・フェスティバルで何度もメダルを獲得するなど成功しましたが、3年後の1995年にはミラー社に売却。
ベルギーでは当時のデ・スメッド醸造所とライセンス契約を結びました。
ところが今度は2001年にミラー社が撤退。
その後セリス氏プロデュースのビールは、ヴァン・スティーンベルグ醸造所、シント・ベルナルデュス醸造所などでライセンス生産されています。
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