ビールについて淡々と勉強する 歴史その3
こんばんは。酒屋好きの池田です。綾瀬にお住まいの方は北綾瀬の萬吉屋、是非行ってみてください。
一応、過去2回もリンク貼っておきます。よかったら。
第1回
https://www.jbja.jp/archives/7931
第2回
https://www.jbja.jp/archives/7947
★なぜ「ビールと新橋」か
前回ご紹介した「醗酵社」、実は「新橋」に源流がありました。新橋南金六町四番地にあった、ビール販売所です。
この話を進める前に、なぜ「ビールと新橋」をテーマにするに至ったかを書いておきたい。
明治期のビールについて本を読んでいた時に、突然「新橋」の文字が飛び込んできました。正確には「新橋アラガネマ麦酒」です。
北海道開拓使麦酒(ざっくり言うと、後のサッポロビールですね)の市場調査で、東京のビールの価格を記した書類が残っているのですが、そこにこの「新橋アラガネマ麦酒」というブランド名が残っているのです。
新橋にブルワリーがあったのか。ドライドックとか、ビアライゼとか、クラフトビアマーケットがあるあたりに。…と思ったわけです。
ところが、調べても誰が醸造したのか、どこにあったのか、何も出てきません。結局、現在でも全く判っていません。どなたか情報があれば教えてください。その代わりに、出てくるのです。最初のビアホール、販売所など、「新橋」にまつわる場所が次々と。明治期のビール文化と「新橋」は直結しているのです。
★ちょっとした誤解
これについては、前提としてちょっとした勘違いがあります。明治期、新橋という地名はありません。例えばSL広場のある駅西側、いわゆる現在の新橋周辺は、烏森(からすもり)町や愛宕下町。現クラフトビアマーケットやブルストハウス、明野等があるあたりは南佐久間町でしょうか。
新橋という名前は何から来たかというと、現在銀座通りを銀座8丁目の博品館と天国の間を通り新橋に抜ける首都高の下、あの場所に出来た橋のことなのです。いまでもその名残が残っています。目の前を何百回も通っておきながら恥ずかしい。調べ始めてから気づきました。
現在も残る橋の名残。
で、現在も残る新橋停車場跡(今銀座ライオンが入ってます)から、新橋を抜けた先、銀座8丁目あたりが通称として「新橋」と呼ばれていたわけです。正式な呼称は「南金六町」とかです。
ちなみにこれは新橋停車場跡の写真です。
★鉄道開通と文明開化
で、なぜその場所に、というと、輸送ができるから。要するに、現在の西暦で1872年10月14日(明治5年9月)の鉄道の開通によって横浜からビールの重い樽を運びやすい場所だったからです。明治2~3年に相次いで横浜でブルワリーが生まれ、重い樽を運ぶ乗り物が丁度できたら、そりゃ持っていくなら新橋だ、というわけです。で、明治期の地図を見ますと現在の昭和通りは川、電通がある辺りも川か鉄道の引き込み線。伸びるなら西側にちょっとと、新橋を渡ってむこう側な訳です。
さらに銀座周辺は以前から下町として栄えていたのですが、1869年(明治2年)、1872年(同5年)に大火事が発生。これをきっかけに区画整理、そして(当時の)新橋から日本橋手前まで煉瓦街の建設が行われ、「文明開化の象徴」として立て直そうという動きが起こります。このエリアでビールが花開くことに関係深い出来事として記憶しておきたいところです。
ちなみに、これから、新橋といいつつ銀座について書いていくことになります。今回は力がちょっと追いつかないいけれど、昭和の銀座ビアホール文化、ピルゼンとかゲルマニアとかローレライとかについてもいつか書きたいなあ、と備忘録。
ここまでは一気にかけたのですが、多分この後は1週間くらいかかります。ご興味があったらまた読んでください。
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。